3:37 2018/01/05 イーガン「シルトの梯子」の何がどうなってるかを考えてみた文:小川一水 (後半にネタバレあり)  最初に。翻訳の山岸真さん、お疲れさまでした。ものすごく大変だったと思います。この話を日本語で読めてうれしいです。  シルトの梯子には最後に前野昌弘さんの解説があるんですが、解説の段階ですでに十分に高度で意味が分からなかったので、もう一段平たい解釈がいるかなと思って、これを書いてみました。これでもわからん人は当然いると思うので、誰かがさらに簡単な説明を書いてくれるのを期待してください。 最初はツイッター連投のつもりだったので、140字改行で書きました。書いたら増えたのでここに置きます。 えーとですね、イーガンはまず、昔から生き物に魂なんてないと考えてる人でね。攻殻機動隊で人間にゴーストがあり、ロボットにはゴーストがないってやってるのとは違い、「材料を集めて個人と同じものを作ったら、それはその個人」という考え方。自意識があり行動するものは平等に個として扱う。 人間をガーッとスキャンして(方法はいろいろだ、極薄の輪切りにしてって殺しながら読んでもいいし、CTやMRIのうんと高度なやつで非破壊でやってもいい)データ化する、それは可能だよね、というのが第一段階。 データ化したものを計算機の中でロードしたら意識を持つよねってのが第二段階(持つか否か、持ったらその価値は、その計算速度は、みたいな話もたくさん書いてる)。で、そのデータに基づいてよそで人工的に肉体を再建したら、それも人間だよねってのが第三段階。 このとき元のままの肉体を再現する必要って全然なくね? ってのが第四段階。病気の治療とか記憶の操作に始まって、体の作りを変えたり、性別いじったり、喜怒哀楽調節したりなんてのもやる。ごく普通にやる。同時に生まれる、それやるともう本人とは言えなくない? って疑問も扱う。 そのときに大事なのは、コピー前の本人とコピー後の本人が連続性を自覚できていることとしており、周囲からどう見えてどう扱われるかは二の次になる。二の次でなければならないし、そうなるといいねというのがイーガンの立場。 コピーが二つできたらその各々の内面を本人たちに考えさせたり悩ませたりはするけど、それを周囲がどう扱うかを、イーガンは主要な問題としない。本人が大事に決まってるだろ、それを立てていけよ社会、みたいな立場。でもワガママ人間ばかりの話じゃなく、本人たちは社会を左右する危険に本気で悩む。 人間がコピーされたとき、材料が何かってのも全然問題にしない。本人が自分を認識できるのであればハードがなんであってもよい。肉と骨だけでなく、疑似たんぱく質でもいいし金属メカでもいいし、なんだかわからん素粒子や分子で作られててもいい。けれど計算機を挟むことのほうが多いか? 肉体のある人間と、データ化された人間を等価で扱ってるので、どこかへいくときは肉体を運ぶより、データ化した肉体を送信して目的地の計算機でロードしてもらうのが手っ取り早い。これで恒星間航行を楽にした。シルトの梯子にはそれ以前の時代の肉体航行人もいて、アナクロノートと呼ばれている。 で、目的地に着いたときに、肉体を再構成する人もいるけど、もともとデータ状態なので体を作らない人もいる。ここらも「個人の選択」としてそうさせてる。イーガン社会はほんとに個人を大事にする。逆に言うとレッテルで相手を判断するのはすごいタブーで、初対面の二人は慎重に習慣を探り合う。 これぐらいのことを前提として心得ておくと、シルトの梯子の基本的な道筋は追えるかもしれない。あと量子力学の多世界解釈もからんでくるけど、そこは正直、理解力を越えてた。人に説明できるほどわからなかった。成功率の低いチャレンジをするとき、サイコロチートができる設定、とみなした。 「シルトの梯子」では未来宇宙の学者が真空の構造をいじる実験をやって、失敗して、どーんと球形の爆発が起こる。「新真空」と呼ばれるその球は光速の半分の速度で広がり、何千もの惑星を飲み込んでいく。それから六百年ぐらいたった時代、新真空ボールを調べる調査宇宙船の内部が、中盤の主な舞台。 まず、そこが「うええぇ……」って驚くところなんで。光速の半分の速度で広がる爆風を「すぐそばで落ち着いて調べるために、同じく光速の半分で爆風の五キロメートル先を進み続ける宇宙船」が舞台だ、ってところが。この話では超光速やらないから、常光速の範囲でそれをやってることになる。器用すぎる。 そこを舞台に、自分を送信してやってきた何百人もの学者が二派に分かれて議論する。「この爆風ボールを食い止めてぶっ壊す」と「この爆風ボールも貴重な宇宙的現象のひとつだから壊さず前に調べる」。ここが第二の「うえぇ……」ポイント。普通こんなの食い止める一択でしょ。でもイーガンそうならない。 ならないどころか、その調査の科学的意義、ひいては多彩な変容を経たすべての人間にとっての意義、さらには、読者である俺たち今の人間ですら、うなずいてしまいたくなるような意義をドンデンバンと打ち出してくるところが、イーガンの真骨頂。人種性別年代国籍、なにもかもを越えた普遍的な選択って何よということが問われてくる。 死も話に絡んでくるけど、出てくる人はみんな別の星にバックアップを残しているので、今のこの体が死んでもそこで人生が終わるわけじゃない。だから死の意味は我々とは違うけど、けれどもまったく死が悲劇じゃなくなったかというと、そうでもない。最後のバックアップから死の瞬間までの体験は精神の外に持ち出されないので、より重要になっている。 ところで新真空ボールは実のところただの爆風ではなく、その内側に別の新しい宇宙を抱えていると見られ、最初はまったく中のことがわからない。だが研究者たちは境界を隔てて向こう側のことを知る手立てを編み出していく。文からして中間子レーザーを使うらしいが読んでも全然意味がわからない。中性子レーザー(それすらSFでもめったに見ないが)じゃなくてコヒーレントな中間子。わからん。 ここはとても大事なところなのだけど、それを説明する97-98ページの文を何度読んでも意味が分からなかったので、噛み砕けない……。なので、小川は大雑把に次のように認識して読み進んだ。まず、境界面は物質絶対通さない壁、超硬い卵の殻のようなイメージに見立てた。ただし「書機」「スタイラス」等の機械でグラフを「書きつける」ことができるようなので、卵の殻に針でコリコリと透かし彫りのようなことをやっているとみなした。内外で、ぼんやりと情報や手触りのやり取りができる感じ。 (「グラフ」という言葉は本作で特別な意味を持っていて、棒グラフ円グラフの意味ではなく、「宇宙の真空を構成する微細な基本構造」を表してもいる。「グラフを切断する」「グラフを見つけろ」という言葉がしばしば出てくるけど、これらは「大宇宙レゴブロックの一番小さいやつをいじって変える」「目的に沿ったレゴブロックの組み方を考えろ」みたいな意味であり、単に図像操作をしろって意味じゃない。ここはまぎらわしい) で、話が進むと新真空ボール「ミモザ」の中のことが重要になっていき、通れないはずの境界壁の中へ物体を入れなければならないという展開になる。 これが一番わからないと感じるところじゃないかなあ。 作者はここで、上で書いた二つの得意技を組み合わせた合わせ技を使ってくる。 ひとつは「物体を送れないところへは、情報を送って向こうで組み立てる」というやつ。 境界壁を越えて物質を押し込むことはできないが、トンツートントンの情報は押し込めるようなので、それでもってこちらの物体のデータを送り込む。 作者は「境界壁に一連のグラフを書きつけて内側に構造を生じさせ、そこに変調した光として境界面を通過させたデータを送ることはできます」という文でそれを述べている。 (「構造を生じさせ」ってのは「内部自動建造工場を作ります」ということだろうけど、そんな簡潔な一文で済ませるところがずるいし、「変調した光として境界面を通過させ」って、おまえ中間子レーザーどうしたん、ただの光子で通れるんか等思うところもある) そのような手で、新真空ボールの中に、工場というか機械を作っちゃう。 もうひとつの技は「人間をデータ状態のまま計算機の中で走らせる」。生身の人間は境界壁を通れないけど、データ化した人間は情報なので中へ入れる。それを、新真空ボールの内部に建造した機械(当然のようにそれは超高度なコンピューターだったりする)で受信し、その場でロードして走らせることで、人間が内部で活動できるようにした。 これ、スペオペに翻訳すると「人間の宇宙船が宇宙の果ての壁にぶつかり、なんとか工夫して通り抜けた」というだけの、実に馴染み深いモチーフではある。あるのだけど舞台設定と飾り付けが文句なしにすごいね。 新真空ボールの内部では物理学も違っている。ただ単に光速や重力定数が違うってんじゃなくて、光速があるかないか、重力があるかないかというところからもう違っているらしい。しかも観測するたびにめまぐるしく変わる。 われわれの宇宙がある規則に従って動く機械だとすると、新真空の中にはあらゆる規則に従うあらゆる機械が詰めこまれている――というイメージで読み進めてはみたけど、実際にはそんなことが描かれていたんじゃないよな。ここも小川は正確に理解できなかった。 話の後半三分の一では、新真空ボールの内部構造である「ヴェンデク」という代物がどんどん重要性を増し、データ化した人間と、それを走らせている宇宙船も、その「ヴェンデク」をベースとして自分を計算させていくことになる。ここらへんは正確な理解など放棄して、ひたすら連想と空想で読み進めていくのみだった。 宇宙に広がる半径三百光年の白い球。その薄い殻の部分にうじゃうじゃとひしめく、細菌より小さい「ヴェンデク」。ヴェンデクの群れによって点描で描かれた宇宙船「サルンペト」号と、サルンペト号の超賢いスーパー計算機が作り出すヴァーチャル空間の中で、話したり笑ったり怒ったりする主人公たち。 この感想文を書く前にツイッターで「ああ疲れた」と言ったのは、このため。我々のいる地上から、遠く離れた時代の遠く離れた宇宙で始まった物語が、さらにさらに遠く隔たったわけのわからない領域にいってしまったので、それを追っかけてイメージをつかみ続けることに、ものすごい空想力をっつか、ストレートに体力とブドウ糖を使い切った気がする。 物語の終わりでは伏線が回収される。示されたテーマは物語を通じて一貫して表されていたもので、意外性はないけどうなずけた。タイトル「シルトの梯子」はここまでの主人公たちの人生や技術の進み方に、詭弁に詭弁を重ねてとんでもない先のほうまでいくような作者の物語構築を重ねたものかな。小説として目新しいか、トリッキーか、ということは別に気にならなかった。数百光年の距離と何万年もの歳月と、十の三十乗メートルのスケール差を行ったり来たりさせながら、数学をバックボーンにして豪腕で語ってくるのがイーガンのすごいところであり、そんなパワープレイをしながら、「傲慢さ」に対してすごく神経質であるのが、イーガンの好きなところ。 新真空の内部を抹消しろと唱えた人に対して、「人類側の擁護者である」はずのタレクという人が説いて聞かせた303ページの演説こそが真髄なので、なんかのときには思い出していきたい。 以上。