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封金使
―― 刻と小夜美の放浪記 ――
戦国武将佐々成政は五五〇億円の金を黒部山中に隠した。
太閤豊臣秀吉は三万貫の金銀を多田銀山に残した。
徳川幕府崩壊の際には三五〇万両の御用金がいずこへともなく消えた。
歴史の闇の向こうに、鈍く輝く財宝の影が見える。伝説である。だが絵空事ではない。
この国は昔、世界の金銀の三分の一を産出し、黄金の国ジパングと呼ばれた。
事実である。
壱 小夜美と刻
「財宝発見? 作業員びっくり」
道路工事の最中に財宝が出土――。今月二日、東北地方の八十島盆地にある八十島町で、県道の改修工事の最中に金塊が見つかっていたことがわかった。
町の教育委員会の発表によると、見つかったのは長さ約三十センチ、重さ六・八キロの金の延べ棒が一個で、江戸時代の竿金というものらしい。金地金にして換算した場合、時価六四〇万円相当。八十島町内字棚貝の県道の拡幅工事を行っていた建設会社の作業員が、重機で県道わきの地面を掘り返した際、地下およそ六〇センチの深さから発見した。
同町内には古くから江戸時代の豪商が残したと言われる埋蔵金の話が伝わっており、教育委員会では、その話のことも考えに入れて調査を行いたいという意向を示している。
なお、気になる金塊の所有権は、埋めた人間が一番に優先され、本人がいなければその子孫、地主、発見者の順に確定するが、右の埋蔵金の話もあることから、「分け前」が決まるのはかなり先のことになりそうだ。
〈毎朝事報 八月四日朝刊〉
「宝探し?」
一四歳の刻は、目を輝かせて身を乗り出した。
「え、何それ、まさか八十島の黄金?」
「おう、知ってるのか」
通路を挟んだボックス席から答えたのは、濃いひげ面の大柄な男だ。
JRのローカル線――東北のひなびた田舎を走る地方鉄道の車内である。
「まさにそいつだ。おれたちゃ、それを探しに行くんだよ」
「へーえ」
「ロマンがあっていいだろ。――それとも、おまえさんも当節の中学生みたいに、鼻で笑うクチかな?」
「笑うわけないよ。だって、おれたちもそれ探しに行くんだもん」
「へ? ぼくが?」
ひげ面のむかいに座った、細面の青年が間のぬけた顔をしてから、笑った。
「わはは、そりゃ奇遇だ」
「ライバル同士だね」
お菓子の交換から話を始めた二人の大人を相手に、刻はまじめな顔でうなずいた。ひげ面と青年は、顔を見合わせた。
「本気なのか?」
「そうだよ。あれでしょ、道路工事の最中に一貫八百の竿金が見つかったってやつ。一個だけのわけがないから、残りを探しにいくんだ」
「……そりゃちょっと、無理じゃないかなあ」
困った顔になって青年が言った。
「装備はあるのかい」
「装備?」
「こういうのだ」
ひげ面が、ボックス席の奥二席を埋めた大荷物を指さした。
「スコップ、ツルハシ、ジョレン、鍬――それだけじゃないぞ。測量用のレベルにスタッフ、メジャー。記録用のカメラにビデオ、レコーダー。分析用のノートパソコン。野営するならテントとシュラフに炊事道具一式もいる」
「それは?」
荷物から突き出した長いプラスチック製のパイプを刻は指さした。先端にはフリスビーのような白い円盤がついている。
「ギャレット社のマインスイーパー――金属探知機だよ」
「おれたち、これだけ。……テントはあるけど」
かたわらの連れの脇に立て掛けておいた、T字の柄がついた杖と、厚刃のノミのようなものを刻はザックから出した。やや情けなさそうな顔である。
「検土杖とタガネか。まあ、基本はできてるってわけだ」
「道具があればいいってものじゃない。大事なのは情報だ」
ひげ面が講義するような口調で言った。
「事前に伝承や言い伝えを収集したか? 古文書を確認したか? 地図を検討したか? 掘る前にやっておくことはたくさんある」
「えーと」
「八十島には和歌が伝わっている。〈あさひさし ゆうひかがやく おかのかみ げんぶさんろく まるどうまんりょう 享保六年壬月甲午〉。こいつを知ってるかね? どう解釈する?」
「勘弁してよ、おれそんなに頭よくないから」
畳み掛けられて、刻は手を振った。横を見る。
「考えるのは全部姉ちゃん任せなんだよ」
刻のとなりには、セーラーカラーの上衣を着てキュロットスカートをはいた高校生ぐらいの少女が座っていた。刻の姉、小夜美である。今まで黙っていた理由は簡単で、ロングヘアの頭を窓ガラスに額を押し付けて、すうすう眠っているのだ。
「起きてくれればそういうの話してくれるけど……朝からずっと電車だから、疲れてるんだよ」
「まあ、君らがいきなり現地に行って、宝を掘り当てるのは難しいだろうな」
ひげ面が、青年に目配せした。青年がうなずく。
「うん、そうだなあ。特に今回は、新聞報道が出てしまったから、他にもたくさんライバルが来てるしな。トレジャー・ドワーフのコンビが出張ってるって話もあるし……」
「なにそれ」
刻が聞くと、ひげ面はもったいぶった口調で言った。
「大手の化学会社に雇われた専属の宝探しだよ。この世界じゃ有名なやつらだ。国内の埋蔵金は、すでに五分の一がその二人にかっさらわれてるって推定もある」
「すげー、なんかカッコいい」
刻は感動したように漏らした。青年が諭す。
「夏休みを無駄遣いしたくなかったら、やめといたほうがいいと思うよ。子供だけで山に入るのは危険だし」
「そうか……」
少年は、考え込んだ。大人たちは苦笑を交わしあった。
刻はしばらく、安らかな寝息を立てている姉の顔を見つめていた。ディーゼルの車両が揺れて減速が始まるとともに、テープのアナウンスが入る。
「間もなく、八十島。八十島でございます」
それを聞くと、刻は決心したように言った。
「あのさ、おじさん……一緒に連れてってくれない?」
「なに?」
大人たちは驚いて聞き返した。
「おれたちだって素人ってわけじゃないんだよ。それなりに山歩きもしてるし、宝探しもしたことあるし……いまは姉ちゃん寝てるけど、起きたら役に立つよ。すごく頭いいんだから」
「ちょっとちょっと、待てよ、だめだよ」
「なんで? お金くれなんて言わないから。野宿するんだったら飯も作るよ。おれ魚とるの得意だし。それに、こう見えても腕力あるよ。人手があった方が便利でしょ?」
「そうは言ってもね、ぼく」
「おじさんたち、プロでしょ。プロのやり方見たいんだ」
「我々は学究の徒で、プロってわけじゃないんだが……」
邪念のない澄んだ瞳で見つめられて、二人の大人は困惑した。と、車両がガタンと揺れて停止した。
「八十島、八十島。お出口は右側です……」
「おうしまった、降りなけりゃ」
一〇〇リットルのバックパックが二つだから、背負うだけでも手間がかかる。あわてて大人たちが腰を上げると、横合いから刻がひょいと手を出した。
「おれ持つよ!」
「持つっておまえさん……」
ひげ面は、声を飲み込んだ。刻が右手でひょいひょいと二つのザックのストラップをつかんだと思うと、いともあっさりそれを持ち上げたのだ。
それだけではなく、刻は眠ったままの姉の腰に手を回して、ぐいと抱き上げてしまった。「ったく、一回寝たら大震災でも起きねーんだから、このボケねえは……」
あぜんとして見守る大人たちの前で、おまけに自分のナップザックを小指で引っかけて口にくわえると、刻はすたすたと歩いて開いた出口から外におりた。我に返った大人たちが後を追う。
真夏の白い光が照りつける、ガランとした何もないホームに、自分の体の二倍はありそうな荷物を抱えた少年が立っているのは、非現実的な眺めだった。
「わふいけろ、おれのきっふ出ひてふれる? こっひのポケッほ」
ナップザックを口にくわえたまま刻が言って、尻を突き出した。あわてて青年が半ズボンのポケットから切符を取り出してやり、自分たちのと一緒に、おりてきた運転手に手渡した。
ぶおーんとのどかな音を立てて列車が走り去ると、やっと刻は二つの巨大なザックをアスファルトのホームに降ろした。ニコッと天使のように笑う。
「役に立つでしょ?」
ひげ面が、突然笑い出した。
青年がギョッとしたように振り向く。ひげ面は大笑しながら言った。
「いいだろう、雇ってやるよ、少年。根性と腕力があるのはよくわかった。危なくない所なら、つれてってやってもいい」
「ほんと?」
刻が顔を輝かせる。青年が小声で聞く。
「イタさん? 本気ですか。足手まといになったら……」
「国川、興味を持った若い者に、この道の蘊奥について説いて聞かせるのも、おれたち学者のつとめじゃないかね」
「はあ……」
「人手がほしいのは事実だ。荷物番でもスタッフ持ちでも、それなりに仕事はあるだろ」
「そりゃまあ、そうですが」
不服げな青年の耳に顔を寄せて、ひげ面はささやいた。
「山っ気のある大人なら、いざエルドラドを発見した段になって分け前だのなんだのでゴタゴタするかもしれんが、この子たちなら大丈夫じゃないか」
「わかりましたよ、教授」
青年は両手を挙げた。ひげ面は刻を指さした。
「よし、おまえさんたちを、我が探検隊の炊事大臣と荷物番大臣に任命する!」
「おっしゃあ!」
刻がガッツポーズを決めた。それから、したり顔で人差し指を立てた。
「そうと決まったら、ひとつ頼みたいんだけど」
「何かね?」
「僕とかおまえさんとか少年とか、やめてくんない? おれは神無森刻、こっちは小夜美って名前があるんだからさ」
「きざむと、こよみちゃんか。おれは東興大学文化人類学科の板橋時雄だ。イタさんでいいぞ。こいつはうちの講座の国川」
「まあ、よろしくな」
「イタさんに、国川さんだね。よろしく!」
刻は、びしっと敬礼をしてみせた。姉の方は依然としてその腕の中で寝息を立てている。
レンタカー屋があったのは、そしてボロではあったがライトバンが一台空いていたのは、奇跡と言っていいだろう。
それほど、八十島町は小さな町だった。
国道沿いの役場と農協と郵便局の周りに数軒の商店が集まっただけの、箱庭のような市街を出ると、青々とした苗が風になびく、水田の景色が広がった。遠く、奥羽の山並みがぐるりと町を取り囲んでいる。盆地なのだ。
「どこ行くの? やっぱり工事現場?」
後席から身を乗り出して刻が聞いた。ハンドルを握る国川が答える。
「いや、榊ケ丘だ」
「榊ケ丘って?」
「ふむ、順番に説明してやるか」
助手席の窓から、火の付いたケントをつまんだ左腕をぶらぶらさせながら、板橋が慣れた調子で説明し始めた。
「そもそも、この八十島町に伝わっている例の和歌を残したのは、江戸中期の享保年間にこの地、八十島藩にあった、榊原なにがしという商人なんだ。榊原の名は?」
刻は首を振った。板橋が苦笑する。
「じゃ、ほんとに何も知らないんだな」
「だから、姉ちゃんなら多分……」
「いいよ、話してやる。榊原は旧八十島藩の札差商人だった。札差ってのは藩の年貢米の動きを仕切る役の商人のことだ。この時代の米は通貨としての役割も果たしていたから、言わば武士相手の銀行をやっていたわけだ」
「金持ちだったんだね?」
「そうだ。巨万の財を築いた。だが、面白くなかったのは武士たちだ。いくら手元不如意だからとはいえ、士農工商の最下層に位置する商人ごときに頭を下げなきゃならなかったんだからな。そうでなくても成り上がりは憎まれる。買った恨みが積もったあげく、八十島の殿様に何だかんだといちゃもんをつけられて、取り潰しを食っちまった」
「なんか、かわいそうだなあ」
言ってから、刻は首をかしげた。
「あれ……だったら、埋蔵金なんて残ってないんじゃないの?」
「よく気づいたな」
板橋はうなずいた。
「榊原もバカじゃなかったってことだ。日頃から武士との付き合いがあった彼のことだから、当然独自の情報網を持っていた。取り潰しの話が持ち上がると、ちゃんとそれを事前に察して、こっそり財産を屋敷から持ち出して、どこかに隠した。それが埋蔵金の由来だ。実際に処断が下されて、没収した榊原の屋敷に取り手が踏み込んでみると、蔵の中はもぬけの殻、財産は銅貨一枚も残っていなかったという記録がある。というか、その記録があるから、埋蔵金の話にも信憑性が出てくるわけだが」
「なるほどねー、狐と狸の化かし合いじゃん。全然かわいそうじゃねえや」
「君がそういう腹黒い大人にならんことを祈ろう。しかし彼が悪知恵の回るたちだったから、現代の我々がロマンにひたることができる」
「ひたってるだけじゃ進まないよ。その先は?」
「そこに歌が出てくる。榊原と内通していた武士あたりから流れ出たものだろう」
「あの歌だね。なんだっけ、朝日がさして?」
「あさひさし、ゆうひかがやく おかのかみ げんぶさんろく まるどうまんりょう」
国川が言った。刻がうなずく。
「それ、暗号なんでしょ。それをなんとかして解けば、金が見つかるんじゃないの?」
「ところがそうは問屋がおろさん」
板橋がにやりと笑った。
「似たような歌が、すぐ近所の岩手県久慈市にも伝わっている。曰く〈朝日さす夕日かがやくアシの下漆万杯黄金万杯〉。そして下閉伊郡田老町には〈朝日とろとろ夕日輝く曾根の松漆万杯金億置く〉」
「え?」
「近所だけじゃないぞ。ちょっと南に下れば奥州藤原氏の遺宝を伝えた歌もあるし、房総には結城晴朝の宝を示す歌も残っている。中部にも近畿にも中国にもある。日本全国、津々浦々に散らばってるんだ。総称して朝日夕日系というジャンルができてるぐらいなんだよ、この歌は」
「なにそれ……どういうこと?」
刻が二人の顔を見回した。
「それぞれ来歴も時代もちがう宝を隠すのに、同じような歌を作るわけがない。これらは大部分、後の時代になってから粗製乱造されたものなんだ」
「もしかしたら歌だけじゃなく、宝の伝説そのものもね」
「なあんだ……じゃ、インチキじゃねーか!」
刻が肩を落とす。すると、板橋がしらばっくれた顔で言った。
「と言う具合にして、この八十島の宝も見逃されてきた」
「……え?」
「がっかりするな、少年よ」
板橋は振り向いて言った。
「現に金が出たんだ。ここの歌は嘘じゃないさ」
「ホントに?」
「ああ。それにこの土地でなら、この歌はちゃんと意味を持ってくるのさ」
板橋は、開け放った窓から外を指さした。
「朝日さし、夕日輝く丘――地球上である限り、それこそどんな土地でもこの歌は当てはまっちまうが、ここは違う。八十島は盆地だ。東西の山に遮られて日当たりには違いができてくる。盆地で一番最初に朝日がさし、一番最後まで夕日が輝いている丘――そう言った場所の存在があり得るんだ」
「あるんだね?」
刻は言った。それから、手を打った。
「そうか、それが榊ケ丘?」
「そのとおり。しかもそこは名前のとおり、榊原ゆかりの土地だ。わかってもらえたか?長くなったが、それが現在向かっている場所なんだよ」
板橋が深々とうなずいて、ケントに火をつけた。手をかざして、水田の向こうを見つめる。
「見えてきたぞ。――振り出しに到着だ」
一面に広がる水田の真ん中に、ぽっかりとお椀を伏せたような丘が見えてきた。
ところが。
「こいつは――」
丘は全体が公園になっていた。そのささやかな裾野を回りこむ道路に、ずらりと車が並んでいる。
空いたところを探して徐行するバンの助手席で、板橋がうなった。
「先を越された、かな」
「地元の人かも……」
「ナンバー見ろよ。県内の車なんか一台もねえ」
「ああ……ほんとだ」
車を停め、揺さぶっても起きない小夜美を置いて外に出る。木々の間を縫うつづら折れの遊歩道に入ると、すっと気温が下がった。五〇メートルほど登ると、小さな社に突き当たった。
「ここ?」
「いや、まだ上だ」
そばの小道を二〇歩も歩くと、頂上に出た。刻がぽかんと口を開ける。
「これみんな……何してるの?」
「だから、商売敵だよ」
顔をしかめて、国川が言った。
檜の大木を二、三本残して、雑木は刈られ、ちょっとした広場になっている。芝生の隅の小さな東屋では、地元の人間らしい家族連れが弁当を広げているが、居心地は悪そうだ。 広場中を、思い思いの装備に身を固めた得体の知れない連中がうろつき回っているのである。
檜の本数を数えている者、磁石で方角を確かめている者、草刈り機のようなものを芝生に走らせている者。全部がひとつの集団というわけではなく、いくつかのグループがかちあっているらしい。それぞれのグループの間には、異様な緊張感がみなぎっている。
「商売敵って……宝探し?」
「ああ。前にも言ったが、新聞報道が出たからね」
「こんなにたくさん……」
「これで全部じゃないな。工事現場の方に行ってる連中もいるはずだから」
なぜか余裕ののぞく口調で板橋は言った。刻が張り切って叫ぶ。
「イタさん、おれたちも早く始めようよ!」
「まあ待て」
板橋は太陽に背を向けて歩きだした。広場の北のはしである。声が聞かれるような近くに人がいないのを確かめると、ついてきた刻に低い声で言った。
「あせらなくてもいい。あいつらは、まだ宝のタの字にもたどり着いてないんだ」
「え?」
「川が見えるな?」
板橋は、眼下の田園地帯を指さした。銀に光る川が一本、ゆるやかにカーブしながら北に伸びている。
「うん」
「栗川だ。名前はどうでもいいが、その上流に山がある」
板橋は、指を少し上げた。数キロ先に青くかすんだ山峰がたたずんでいる。
「あれは北神山という」
「関係あるの?」
「おおありだ」
板橋は、そばにきた国川の顔を振り返った。
「おまえにも話していなかったな。ここに来るまで確信がなかったんだ」
「どうなんです」
「上々だ。地図ではつかめなかったが、川の流れ、山の位置、まさにぴったりだ」
「ねえ、どういうこと?」
じれている刻のそばにしゃがんで、小声で板橋は言った。
「あの歌は、八門遁甲方によるメッセージなんだよ」
「八門とんこう……ってなに」
「諸葛孔明を知ってるか。三国時代の中国の軍師だ。八門遁甲、日本では奇門遁甲とも呼ばれているが、こいつは元々その孔明が操ったと言われる軍学の一種だ。こっちへ渡って来てから妖術の門派のように思われた一面もあるがな。実はこいつが、宝の隠し場所を隠すために昔の武将によく使われたんだ。歌の文句を覚えているか」
「なんだっけ、国川さん」
あっさり刻はひとに振る。国川が言った。
「げんぶさんろく、のくだりですね」
「ああ。玄武の山麓、あれはこういう字だ」
板橋は手のひらに指で字を書いた。刻が首をかしげる。
「玄武ってなんだよ」
「玄武は四神の一つで、色なら黒、方位なら北を指す。北の神――まさしくそういう名の山があるじゃないかね」
「あ……そうか!」
刻が手を打つ。しーっと黙らせて、板橋は続ける。
「山と言っても広いから、それだけならまだ場所を絞りきれん。だが、上の文句は、〈おかのかみ〉。丘のうえじゃない。かみ、上流だ。そして、この榊ケ丘のそばを流れる栗川は、北神山を源流にしている。北神山、しかもこの川の流域。場所は特定される」
「そうか、そうか!」
何度もうなずくと、突然刻は身をひるがえして走りだした。なんだ、と見守った板橋たちは、驚いて立ち上がった。
刻が、檜の高さを測っていた一団に近づいて、話しかけたのだ。
「ねえちょっと、おじさん!」
「なんだ?」
すでに刻たちのことを別の宝探しグループだと察しているらしく、仰角計をもった男が警戒の視線を向ける。刻は、いきなりとんでもないことを言った。
「埋蔵金だけどさ、ここにはないんだって」
「なに?」
「ここじゃなくって、川沿いにもっと北に――」
「おい、こらこら!」
ダッシュしてきた国川が、乱暴に刻の手を引っ張った。なんだよ、と見上げるのを強引に引きずって、その場を離れる。
板橋とともに、広場を出て遊歩道まで戻ると、国川は刻を叱り飛ばした。
「どういうつもりだ! せっかくの情報を人に漏らすなんて……」
「だって、あの人たち見当違いのことしてたわけでしょ」
きょとんとして、刻は答えた。
「間違ってるって教えてあげた方がいいじゃん」
「いいじゃんって……おまえ」
別世界の生き物を見るような目で国川は刻を見つめた。
「横取りされちまうだろうが!」
「みんなで分ければいいんじゃないの?」
「そういう問題じゃ……いや、イタさん、どうします?」
途方に暮れたように国川は板橋を振り返った。難しい顔で腕組みをしていた板橋は、刻の前にしゃがんで言った。
「きざむ。おまえさん、最初っからさっきのあいつらの仲間だったのか?」
「違うよ」
傷ついたような顔で、刻は言った。
「でも、誰か一人が得をするよりも、みんなで分けた方が仲良しになれるじゃん?」
「そうか」
板橋は立ち上がった。それから、厳しい顔で、国川に言った。
「こいつはおれのミスだな」
「どうします。駅まで連れ戻すか……」
「いや、連れてくよ」
「教授?」
驚いた国川に、板橋は笑った。
「きざむに私欲がないってのがはっきり分かったじゃないか。なさすぎるようだがな。もともとそこを見込んで連れてきたんだ。はっきり認識していなかったおれの手落ちだよ」
「連れてくんですか? こんな、ほいほい他人に秘密をしゃべっちまうようなガキを」
「そこだけははっきりしとこう。きざむ」
「はい」
身構えるように体を堅くした刻に、板橋は顔を近づけて言った。
「おれたちは学術目的で宝探しをしてるんだ。価値のあるものが見つかっても、独り占めするようなことはしない。ちゃんとしかるべき筋へと渡す。でもな、他の連中はどうか分からん。むしろ一獲千金を狙う狼どもばかりだろう。さっきのようなことをすると、そいつらが宝を独り占めすることになるかもしれん。わかるか?」
「うん」
刻は神妙にうなずいた。
「だから、以後勝手な行動は慎め。今度やったら、お払い箱だ」
「……わかったよ。ごめんなさい」
板橋は立ち上がって、これでよし、というように振り返った。国川はふてくされたように向こうを見ている。
「おえもそう狭い料簡を持つんじゃないよ。お互い金持ちでもないが、明日の飯に困る身分でもあるまい?」
「……わかりましたよ」
「よし、じゃあ行くぞ」
三人は歩きだした。板橋は、何事もなかったように説明を続けた。
「ここからはおれが苦心して探り当てたことだ。上の連中がまじめになってあそこらを探してるのを見ると、やつらも知らん。実は、たまたまこの地方の旧家に知り合いがあって、古地図を見せてもらうことができたんだ」
「宝の?」
「いや。だがそれに匹敵するな」
下り坂を歩きながら、板橋は言った。
「例のな、工事現場。あそこは今は住宅街だが、昔は川だったんだ。だから、金は増水か土石流で、その川を流れてきたと推定できる」
「それで?」
「地図でその川の源をさかのぼってみた。どんぴしゃだ。北神山山系のある分水嶺で、栗川とぶつかっていた。つまり、そのごく狭い地域を探せばいいということになる」
「じゃあもう見つかったも同然じゃん!」
刻が叫ぶ。こら、と叱ってから板橋は顔をほころばせた。
「そこまでの確信がなきゃ、わざわざ自腹で東北くんだりまで出て来んよ」
「ねえじゃあさ、歌の最後のまるどうまんりょうってなにかな。まんりょうは一万両ってこと?」
「穴山梅雪が甲斐に残した軍用金の覚書とされる文には、〈まるどう たけながし〉の文句がある。その類いだな」
ふもとまで下りると、国川は用を足しに行った。待つ間、車をのぞき込んだ板橋が声を上げた。
「おい、眠り姫がおらんぞ」
「え? あ、ほんとだ」
刻は驚かない。慣れた感じでそこらを見回す。
「姉ちゃん暑いのも苦手なんだよ。だからどっか、日陰に……ああ、いた」
板橋が見ると、近くの木陰に白いものがあった。刻が走っていって二、三言話しかけたかと思うと、かつぎ上げて戻ってくる。
「おいおい、大丈夫か」
「うん、ちょっとぼんやりしてるだけ」
後席に小夜美を戻すと、ちょうど国川が戻ってきた。顔をしかめる。
「いつになったらこの子は目を覚ますんだ? 足を引っ張られるのは困るよ」
「ごめん、心配かけて。夕方になったら復活すると思うから」
刻が姉に代わって頭を下げる。無言で運転席に着いた国川に、板橋が言った。
「まあいいじゃないか。今のところは人手がいるような事にもなっとらんのだ。邪魔にはならんさ」
「イタさん」
刻が後席から首を出した。
「ありがとう」
「気にするな。あやまるならこいつにだ」
「ごめん、国川さん」
「ちゃんとしてくれよな」
ぶっきらぼうにそう言うと、国川は車を出した。
流れに沿った道がなかったので、川をさかのぼるのは意外に手間どった。何度か道を間違えながら、どうやら分水嶺に近いと思われる小さな渓谷への道に乗り入れたのは、もう四時近くだった。
「潮時だな。本日の探索はこれまで!」
板橋が宣言し、夜営地を探すことになった。暗くなってからでは適当な場所を探すことが難しいし、テントを立てたり夕食を作ったりの手間もかかる。キャンプを設営する日は早めに行動を終えることが野宿の鉄則なのだ。板橋はそれをわきまえていた。
植林された杉林と川原の間に適当な平地を見つけて、一行はそこに落ち着いた。
「国有林だな……人に見つかるとうるさいが、まあ火の始末さえしっかりやればかまわんだろ」
「じゃ、始めるね!」
刻は宣言どおり手際のいいところを見せ、あっと言う間に二つのテントを立てると、夕食の支度に取り掛かった。
「材料何があるの? ジャガイモ、ニンジン、たまねぎ……カレーだね!」
「キャンプの定番だろ?」
板橋がウインクする。こちらも、そこらの石でカマドを作っているところである。石を選んで風向きを見、積み上げていく段取りが慣れている。
車をレンタルするときに調達したポリタンクの水で、国川が米を研いでいる。その手元は、刻に比べてはるかにおぼつかない。さっさと野菜をむき終わった刻が、板橋たちの荷物をひっくりかえして首をかしげた。
「肉がないけど」
「ああ、痛むんで肉はなしだ」
「それちょっと寂しいなあ。……川があったよね。ちょっと釣ってくる」
「魚カレーか。釣りもやるのか?」
「水きれいそうだから、ヤマメかイワナがいるかも」
「一人じゃ危ないな。おい、ここ任せるぞ。火ぃ見ててくれ」
魔法のような手際で起こした火にハンゴウをかけると、板橋は国川に声をかけた。
「いいですよ。もう歩くのは疲れました」
「なんだ若いもんが。皿だけ用意しとけ」
くたびれた様子で片手を挙げた国川をおいて、二人は川に出た。
ごろた石の転がる広くもない渓流である。川幅は狭いが流れが速い。対岸は花崗岩の白い岩壁で、その上に森が迫っている。
「深いね。水が緑だ。あの辺の岩陰がポイントかな」
折り畳み式のロッドをナップザックから出して仕掛けを作ると、刻は川にほうり込んだ。細い体のわりに筋肉のついた手首を細かく動かすと、生きているように毛針が水面で踊った。そばの石に腰掛けた板橋が感嘆する。
「うまいもんだ。慣れてるのかね」
「野宿はしょっちゅうだし」
「ほう。そういえば宝探しの経験もあると言ってたな。見かけ以上の怪力といい、眠ったままの姉さんといい、一体何者だ? 君らは」
おどけて言った言葉だったが、返ってきたのは不思議な返事だった。
「そういうさだめなんだよ。おれたち」
「……さだめ?」
「うん」
刻はフライを見つめながら、上の空のように言った。静かに水面を凝視している整った横顔を、夕日が色鮮やかに照らしている。板橋は一瞬、目の前にいるのが、人間ではない昔話の主人公のような気がした。
金太郎。桃太郎。一寸法師。牛若丸。
「婆ちゃんに言いつけられてんだ。学校も休みだから、いい体験してこいって」
「……確かに、未成年は保護者には逆らえんさだめだな」
牛若丸はどうも陳腐だったな、と板橋は赤面した。親ではなく婆ちゃんというのが気になったが、家庭の事情を詮索する気はない。
「なかなか開明的なおばあさんのようだな」
「おれはあんまり好きじゃない。あんなばばあ」
「ばばあってのはよくないな」
「いいんだよ。それより、イタさんはなんで宝探しなんかしてんの?」
「おれか」
板橋は、ケントに火をつけながら考えた。
「金がほしいから?」
「いや、おれがほしいのは小判じゃない。……昔の人の足跡だ。おれ流に言うと、古代人がケツ拭いた紙かな」
「なにそれ、汚ねえ」
「捨てられ、隠されたものということだ。教科書に出てるような整然とした史実や、飾り直された城なんかじゃない、生の遺物。江戸時代、室町時代の人間の考えが、なんのフィルターも通さずに残っているようなものを目にしたいんだ。埋蔵金ってのは、うさんくさい分、学問の型枠をはめられてない。当時の人の生臭い思惑がそのまま匂ってきそうな遺物だからな」
「文化なんとか学ってそういうのなの?」
「覚えてたか。もちろん違う。まあ余芸だな。おれのは」
板橋は苦笑した。
「正規の仕事とは認められてない」
「なんで? カッコいい理屈だったよ、さっきの」
刻は不思議そうな顔をしている。
「そう言ってくれるのは君と国川だけだ。あいつは今時の学生にしては珍しく物好きなやつでな、今回の調査行もどっちかというと彼の方が乗り気で……」
板橋は、声を低めた。
「おい、引いてるぞ」
毛針がいつの間にか水の中に消え、ピンと伸びた糸が小さな波紋を水面に広げている。だめだ、合わせが遅いと思って顔を上げた板橋は、少年が水面を見ていないことに気づいた。
「きざむ?」
「姉ちゃんだ……」
板橋は、刻が見ている方向を見た。少し上流に、いつの間にやってきたのか、キュロット姿の小夜美が立っていた。杖――検土杖で足元の石をつつき、しゃがんで、何かをつまんでいる。
やがて、小夜美は立ち上がり、辺りを見回すと、さらに上流の草むらの中へと歩み去った。
「何をしてるんだ、あれは」
「イタさん、これお願い」
「あ、おい、待て!」
刻が軽快な足取りで走り出す。押し付けられたロッドをその場において、板橋は後を追った。その時、横手の草むらが揺れて、あわてた様子で国川が飛び出してきた。
「おう、どうした?」
「どうしたも何も……あのこよみって子がいきなり起きてきて、おれを見もせずに行っちゃったから追いかけてきたんですよ」
「止めなかったのか。それに、火は」
「とりあえず土をかけておきました。あの子、まだ寝ぼけてるんじゃないですかね。足元ふらついてましたよ」
「そこで何かやっていたが」
二人は、刻に追いついた。さきほど小夜美が立っていたところにしゃがんで、刻が白い岩の表面を見ている。のぞき込んだ国川が、叫んだ。
「おい、それは……金じゃないか?」
ぎょっとして板橋は刻が手にしている石を見つめた。こぶしより小さいぐらいの黒い石塊に、夕闇の中でもきらきらと輝く黄金色の粒子がのぞいている。
刻は、それを正面の岩の表面に当てて、ガリッと引っかいた。黒い筋が残る。板橋は、その隣によく似た黒い筋があるのに気づいた。
「見つけたのか? あの子が!」
「ううん……これ金じゃないと思うよ。金だったら姉ちゃんも教えてくれるはずだもん」
「そういえば、こよみちゃんはどこへ行ったんだ」
「何かに気づいたんだと思う。でなきゃ、姉ちゃんが動き出すわけないもん」
「勝手に動くなって言っただろう!」
「待て、あの子が心配だ」
板橋がさえぎった。
「もう日が暮れるぞ。夜の山の危険をわかってるのか? きざむ、どこへいったか見当がつくか」
「とりあえず上流へいったんじゃないかな」
「根拠は」
「地形を読んで。姉ちゃん、山歩きならおれよりずっと詳しいし、慣れてるから」
「そりゃすごい、まるで金山衆だな」
「かなやましゅう?」
「甲斐武田家に仕えた、金鉱掘りのプロ集団だよ。よし、追いかけるぞ。国川、懐中電灯持ってきたな?」
三人は、川原を走りだした。
ずいぶん暗くなった沢のずっと上の方に白いものを見つけたのは国川だった。
「教授、あそこ!」
「ここを上って行ったのか?」
口を開けて板橋は斜面を見上げた。そこは昔、土砂崩れがあったところのようで、数十メートルにわたって山腹がえぐられ、くぼんでいる急な斜面だった。
「危険だな」
「大丈夫、姉ちゃんが上れたんだから!」
刻がましらのような身軽さで、斜面をよじ登って行く。残る二人も必死になって後を追う。上り始めると、見かけほど土が緩くはないことがわかった。かなり大きな樹木も生えている。
「新しいものじゃないな。少なくとも百年は経ってる」
三十メートルほど登ったところで、山の肩のようになっている狭い窪地があった。そこにたどり着いた二人は、驚くべき光景を見た。
先に上がっていた刻が、なんと二人の男たちと取っ組み合いをしているのだ。
「おい! 何をしてる!」
叫んで駆け寄ろうとした板橋は、ずぼっと足元を踏み抜いて転びそうになった。暗くてわからなかったのだが、そこにすっぱりとナイフで切ったような地面の切れ込みがあった。飛び越えられるほどではないが、山側に木の根が露出しているところがあり、そこをわたって刻はむこうに行ったらしい。
「こんなところを渡って行ったのか!」
国川が驚きの声を上げる。それにも構わず、板橋はこぶしを握り締めて窪地の向こうの戦いを見つめた。
男たちは地元の人間ではないようだった。昼間、榊ケ丘で見かけたような野外用の身なりをしている。あきらかに、宝探しの人間だ。板橋の記憶に引っ掛かるものがあった。情報を握っている自分たちよりも早くこの一帯に現れることができる宝探しなど他にない。あれは、斯界のベテラン――トレジャー・ドワーフの名を冠せられた二人組だ。
「姉ちゃんには手を出させねえぞ!」
刻が吠えた。右手にタガネを構えて男たちに突っ込んでいく。二人が避ける。困惑しているような動きだ。戦おうとしているわけではない――だが友好的でもない、と板橋は見抜いた。なんとかあしらって、刻をおとなしくさせたい、そういう動きだ。
突っ掛かっていった刻の後ろに一人が回りこんで、羽交い締めにしようとした。それを察知して刻が避けたが、逃げ切れない。タガネを持った右腕を、押さえ込まれる。
「離すな、平手」
もう一人が声をかけた。刻は押さえ込まれている。まずい。板橋は声を上げようとした。大人がいることがわかれば、二人組も乱暴をやめるかもしれない。
だが、板橋は声を喉にはりつかせた。
「こンのやろー!」
叫びとともに、刻がしがみついた大人の体を、思い切り振り飛ばしてしまったのだ。吹っ飛んだ先にもう一人がいた。一つに重なった状態で倒れ込む。
板橋は目を疑った。刻の腕力にではない。男の一人が、頭に来たのか石をつかんで思い切り刻に向かって投げたのだ。子供相手になんて乱暴なことを!
キィン! と澄んだ音がして火花が散った。
「……ちっ」
二人が立ち上がって逃げていくのが見えた。板橋は、呆然と口を開けていた。
「イタさん、助けにいかないと」
「……今の見たか?」
「え?」
足掛かりになるような木の根を探していた国川が振り返った。板橋は首を振った。自分の目が信じられない。説明しても、それの凄さは理解させられないだろう。
刻は、手にもったものを真っすぐに突き出して、飛んできた石を叩き割ったのだ。バットでボールを打つようなこととは違う。この薄暗さで、正面から飛来した石をタガネの刃で正確に弾く。どうしてそんなことがあの少年にできたのか。
「なんなんだ……」
板橋は頭を振った。気が付くと、割れ目の向こうに刻がやって来ていた。
「きざむ、なんだ今のは」
「わかんないよ」
刻は、渓流から背負ったままのナップザックにタガネをしまうと、息を吐いた。
「ここへ上って来たら、穴に入っていこうとしてる姉ちゃんをあいつらが引っ張り出そうとしてたんだ。思わずケンカ売っちゃった」
「そのことじゃなくて……」
「穴? 穴があるのか?」
国川がせきこんで聞いた。刻は国川の足元を指した。
「それ」
言われて足元を見た板橋の念頭から、ささいな疑問が吹っ飛んだ。割れ目と見えたのは、山肌にうがった穴の天井部分が崩落したもので、中は奥深い洞窟のようになっていたのだ。「これは……!」
「姉ちゃん、中だよ」
刻が言ったとき、ひょいと穴の奥から少女が現れた。板橋は、起きている小夜美を初めて間近で見た。
寝てもいない。寝ぼけてもいない。ロングヘアに縁取られたおとなしげな顔立ちの中で、目がはっきりと見開かれている。まぎれもなく高い知性のある者の顔だ。板橋は、刻がずっとこの姉に寄せていた信頼のわけを、即座に理解した。
小夜美は、片手にもっていたずっしりとした量感のある塊を、口元に寄せて、少しかんだ。穴の中に飛び降りた刻があわててそれを取り上げる。
「ぼけ姉! 食っちゃだめだろ!」
「いや、きざむ、それは……」
貸してくれ、と板橋は刻の手からそれを受け取った。幅二寸、長さ一尺、重さは大体七キロ前後――一貫八百。
小夜美の歯が削り取ったところは、懐中電灯の光の下で、曇りもなく燦然と輝いた。
「竿金だ……」
「教授……」
板橋と国川は、顔を見合わせた。どちらの表情もこわばっている。長い時間の後、それが徐々に崩れていった。
「見つかった……こんなあっさり……信じられない」
「信じられんが、本当だ。見つかったんだ!」
「違います」
静かな声が、二人の上に冷水を浴びせた。
小夜美の声だった。小夜美が、姿と同じように静かで透き通った声で言った。
「これは、本物じゃない。偽物よ」
「偽物? しかしこの重さは」
「その竿金は本物です。でも、宝としては偽物。喪人符がないもの」
「なんだって?」
聞き返した板橋に、小夜美ははっきりと笑顔を見せて、言った。
「神無森小夜美です。今日一日ご迷惑おかけしました。――今から榊原の隠し金を探させていただきます」
弐 円方長者
「あれは誤導です」
町へと戻るバンの中で、小夜美は静かにきっぱりと言い切った。
「理由は二つ。一つは、簡単に見つかったから。一つは、竿金だったから」
「なぜそれが理由になるんだ」
「囮は置くのは遁甲方の常識です。それに、榊原は商人だったから。普通は小判で残すもの」
はっきりとした話し方だった。寝ぼけていた昨日とは別人のように明晰で簡潔である。
気はないようだった。
「誤導……偽の宝か。じゃあ君は、本物は何だと思うのかね」
「金山」
ずばり小夜美は言い切った。
「竿金は、金を素材として残すための物だもの」
「筋は通ってる」
だが、それだけじゃあるまい、と板橋は言いかけた。昨日の夕方の、あの崩れた隠し洞窟で小夜美が言った不思議な言葉が耳に残っている。だが、その後いくら問い詰めても、小夜美はその言葉の説明をしなかった。
「でも、洞窟を放っとくわけにもいかないだろう」
国川が渋い顔でいう。かれは、あまり小夜美の言うことを信じていないようだった。というより、すでに見つかった金塊のことで頭が一杯なのだろう。
「調べた限りでは土砂崩れでほとんど金も残っていなかったが、探す価値はある。ぼくは、あれの始末から手をつけたいね」
「じゃあ、そっちはお願いします。わたしたちは、二人でやりますから」
「ふむ……」
板橋は腕組みした。小夜美があの洞窟が見つけたのは、ほとんど幸運のお陰だろう。地形を読み取って土砂崩れの後を探したしたと刻は言ったが、おいそれと信じられる話ではない。
だが、幸運なら幸運で、小夜美にそれがあるのは確かだ。予想外にあっさり目的のものが見つかったおかげで、日程にも余裕がある。板橋は、考えを決めた。
「おい、国川。おまえ、昨日のやつの届け出やっとけ」
「え? イタさんはどうすんです」
「おれはもうちょっとちびっ子たちに付き合う」
「……いいですよ。じゃ、役場についたら運転代わりましょう」
「こよみちゃん、これからの方針は?」
「榊原家についてもう少し調べます」
「資料か。そういえば旧榊原屋敷が資料館として保存されていたな」
「じゃあ、そこに行きます」
「しかしあそこには、手掛かりはないと思うぞ。あればとっくに誰かが見つけてる」
「かまいません」
小夜美は、自信ありげに言った。
「それでいいかね、きざむ?」
「もちろん! 姉ちゃんが間違えるわけないもん!」
「……ま、歴史の勉強ぐらいにはなるだろう」
肩をすくめて、板橋はうなずいた。
八十島町の市街地は、盆地の東寄りにある。駅からは少し離れている。
天守閣もない城跡を取り巻くささやかな城下町に、かつて藩主に御用屋敷として召し上げられ、今は資料館となっている榊原家があった。
塗塀に囲まれた広壮な屋敷の前に。駐車場と来歴を書いた立て札があった。役場で国川を降ろして来た三人は、そこに車を止めて屋敷に入った。
檜皮葺きの門を構えた立派な邸宅である。土間を上がったところに机が置かれ、にこにこ笑うばかりの老婆が番をしている。申し訳程度の観覧料を払って上がりこみながら、刻が不思議そうに聞いた。
「三〇〇年も前の建物だよね。すげえなあ、全然いたんでない」
「恐らく殿様の手で何度も建て替えられているよ。よそに屋敷を造れるほど八十島は裕福な藩じゃなかったからな」
小夜美はさっさと先に立って歩いて行く。
心字池の上に老松が枝をさしのべる山水仕立ての庭を臨んで、縁側を歩く。田舎の資料館のこととて、客の入りはたいしたこともなかったが、二、三人、例の商売敵のような雰囲気の連中もいた。
いくつもある部屋は奥の半分ほどがロープで仕切られ、そのむこうに甲冑具足や大小の刀、領主から藩士に下賜された骨董などが、説明の札とともに並んでいる。
順に見て行くにつれ、小夜美の表情がなくなっていった。
屋敷内を一巡した。最後の部屋に、いかにもあとから見つけて来たような場違いな品々が、ガラスのキャビネットの中に並べられていた。この屋敷のもとの持ち主だった長者、榊原ゆかりの品々だ。
立ち止まった小夜美のそばに二人がやって来て、キャビネットをのぞき込んだ。中にあるのは手文庫や塗り盆などのわずかな小物、それに虫食いだらけの数冊の和綴じの本だった。
「この本、怪しくない?」
「いや。中におかしな記述があればちゃんと報告されているだろう。おれはあらかじめそう言ったレポートにも目を通して来た」
板橋は、ちらっと小夜美を見てから、気が乗らないまま本を見つめた。
「なになに……〈塵刧記〉それにこれは〈円法四巻記〉と読むのかな」
「よく読めるね、こんなミミズがのたくったみたいな字。この角の変なマークは?」
「鍵桐だ。榊原の家紋だな」
三つの円がオリンピックの旗のように真横に並び、隣の円と組み合っている。各円の上から縦棒がそれぞれ上に伸び、先端にちょっと横棒が出ている。――円が鍵の柄、縦棒が鍵、横棒が鍵の歯を表す。三つの円の並び方が桐の葉を模しているので、鍵桐と言う。
「榊原の蔵書だろう。珍しい本じゃなかったんだろう。だから残されたんだ」
板橋は小夜美に言った。
「キャビネットを開けてもらうか?」
「……いいえ」
顔をそらして、小夜美は言った。いまさらこんなところで何かが見つかるわけがない。板橋は、小夜美の肩を叩いた。
「そううまくは行かんよ。まあ、道々考えようじゃないか。ひょっしたら、役場が国川の報告で大騒ぎになってるかもしれないぞ」
外に出て車に乗る。エンジンをかけながら、板橋は小夜美の様子をうかがった。顔をうつむけ落ち込んでいるようだ。――いや。
突然、板橋は気づいた。落ち込んでなどいない。小夜美の表情には、うっすらと笑みが浮かんでいる。
「珍しい本じゃない、その通りよ。板橋さん」
小夜美が言った。顔を上げる。板橋は、ギアをドライブに入れたままアクセルを踏むのを忘れて、その顔を見つめた。
「だから見逃されてきたの」
「なに?」
「なんか見つけたんだね! 姉ちゃん」
刻が顔を輝かせる。小夜美は、うなずいた。
「〈塵刧記〉、〈円方四巻記〉、それに〈参両録〉、〈算法統宗〉。全部、和算の本なんです」
「和算というと……明治以前の日本の算術か」
「そう」
小夜美はうなずく。
「一五世紀末に明の程大意が著したのが〈算法統宗〉。それが伝わって以来、日本では六芸のひとつとして、数学がたしなまれるようになりました」
「それがどうかしたか?」
「和算は幼稚な数学じゃない。足し算引き算から、物の密度、土地の測量、立体の計量、開平開立、連立多元方程式や積分まで計算できる高度な学問でした。でも、西洋の高等数学とは大きく違うところがひとつあった。何か知ってますか?」
「……」
「実用に使うことが全然考えられていなかったということ」
「……」
「江戸時代の人たちは、まったくの遊びとして数学をやっていたの。それを使って、例えば橋の強度計算をしたり、収穫の統計をとったりということは全然しようとはしなかったんです。グループを作って問題を出し合ったり、算額という問題集を神社に掲げて人々の知恵を試したり、そんな遊びにしか使わなかった」
板橋は口を挟めなかった。ほんの高校生ぐらいの少女の話なのに、理路整然としていて突っ込む隙がなかったせいもあるが、何を言い出したのか、という興味が大きいせいもあった。
「榊原は商家だった。だから算盤を学んでいても不自然じゃありません。でも、商売のためにしてはさっきの蔵書は不必要なぐらい詳しすぎる。彼は、相当な数学好きだったと思います」
「それと宝と何の関係があるね」
「和算では証明問題や確率統計などの理論数学は好まれなかったの。一番好かれたのは、図形問題。円理と言われる円に関する問題や、角の計り方や相似問題。――まだ分かりませんか?」
「……そうか。図形問題として宝の隠し場所を残したんじゃないかと、君は言いたいんだな」
「そうです」
小夜美は、きっぱりとうなずいた。板橋は内心舌を巻く。きょうびの女子高生もなかなか捨てたものじゃない。話の進め方は、大学生顔負けだ。
「姉ちゃん、かっきー……」
刻がほれぼれと姉を見ている。そんな弟にほほ笑んでから、小夜美は板橋を見つめた。
「どうですか?」
「おもしろい着眼だ」
板橋は、ギアをパーキングに戻した。
「ゆっくり聞こう」
「ありがとう、板橋さん」
礼儀正しく頭を下げると、小夜美は刻のナップザックからノートを取り出して広げた。
「あの和歌のことを話します。げんぶさんろくという文句がありましたね。人は宝の隠し場所というと、すぐ八門遁甲の事を連想するけど、それこそ榊原の仕掛けた誤導だと思うんです。本当の意味は数学的に隠されている。誤導を残したこと自体は、遁甲方の考えですけど」
「ふむ、数学的な謎掛けだとして、あの歌をどう解釈する? そいつは難しそうだが」
「歌の後に、日付が入っていました」
「ん? ああそうだな。珍しいが、特に注目することも……」
「朝日差し、夕日差す丘というメッセージがあるのに? 同じパターンの多くの歌に紛れ込んでしまっているように見えても、日付の指定があれば、朝日夕日の文句は生きてくるでしょ」
「……ふむ?」
「享保六年壬月甲午。日付がわかれば、丘の上の何かから伸びる影で目印を指定することができるでしょう」
「……そうか! 影で場所を示すのは埋蔵金の定番だからな!」
小夜美は、ノートにシャープペンシルで数字を書き始めた。
「享保六年は一七二一年です。壬月は太陰太陽暦の閏月、二四節季を考えに入れると一七二一年の閏月は七月。甲午は日付を干支で表したもので、この月の甲午はちょうど一日になります」
細かい上品な字が瞬く間にノートを埋め尽くしていく。板橋はあわてて口を挟んだ。
「ちょっと待ってくれ、今のは? どうやったんだ、覚えてきたのか?」
「いま計算したんですけど……検算しますか」
「いや、やめておこう」
自信なさげに板橋は言った。数学は苦手だった。
「つまり一七二一年閏七月一日の、日の出と日の入りの太陽の位置を割り出せばいいんです。榊ケ丘がここ、町がここ、盆地の地形はこう」
板橋は目を見張った。小夜美の手がかすむほどの速さで動いて、ノートの新しいページに地図を描いていく。定規で引いたような直線は国道。コンパスを使ったような円は駅前のロータリー。丘、水田、山、林、建物。XYプロッターのような速度、正確さ。
「きざむ、あの丘に目印はあった?」
「うん。でっかい檜が生えてたよ。ここと、ここかな。ね、イタさん!」
「あ、ああ、そうかな……」
刻ほど自信をもって断言することは板橋にはできない。いつの間に見ていたんだ、と驚く。そうするうちにも小夜美は手を動かして、必要かつ最小限の情報を盛り込んだ地図を正確に白紙の上に描き出した。
「いつ地図を見たのかね?」
「え? 地図は誤差があるから見ません。ここに来るまで地形を見て覚えたの」
「地形を見ただけで?」
「だけって言うけど、平面の配置を知るのはそれでも十分よ」
原理的に、二つの位置からの方角がわかれば、もの位置を割り出すことは可能である。移動する車内から外を見るのは、平面を連続的に走査していくことだから、道路沿いのすべてのものについて、二か所以上の位置からものを見ていることになる。
だが、人間が、それを一度見ただけですべて記憶して、地図上に再構成できるかどうかは、別の問題だ。
理屈を理解できても実感できないでいる板橋の前で、小夜美はさらに途方もない力を見せる。
「一番高かったのは、この檜ね」
「うん。ざっと樹齢四百歳ぐらいはあったかな」
「今一一時四〇分ね。太陽の位置は……こっちが北か」
時計を見もせずに言うと、ちょっと窓から外を覗いて、すぐに小夜美は地図上に真北を書き込んだ。続けて、余白に何段もの数字を重ねていく。
「享保六年の大小月は、大大小大小小大閏大小小小大だから、閏の一日は二〇八日、つまり、現在の七月二七日か。緯度が三九度四一分だから……太陽の赤緯は一九度二二分、三九度四一分から引いて、九〇度からまた引いて、仰角六九度四九分で南中するのね。ああ、歳差が二五八〇〇分の二七八あるんだ。ということは、日の出と日の入りの方角は、こっちか」
計算というより演算と呼ぶのがふさわしい複雑な数式が、レース編みのように紙の上に組み上げられていく。その大半は書かれる前につややかな髪が光る小夜美の頭の中で処理されているようだが、どちらにしろ板橋には伺い知ることもできない。ただ、速い。
はっと気づくと、シャープペンシルの灰色の線で美しく描かれた地図の左右のはしに、二つの点が書かれていた。
「板橋さん、これが、歌に記されていた日付けの、日の出と日の入りの位置です」
「あ、ああ」
普通の人間にこんなものがわかるのか、と思いながら板橋はうなずいた。疑問が口をつく。
「そんな複雑な計算が、当の榊原にできたのかね?」
「彼ができる必要はないんです。それに、彼もせいぜい、数十年先の子孫に宛てるつもりで謎を作ったと思います。それぐらいの間隔なら、まだ暦も残ってるでしょうから」
「暦を見るべきところを、君は計算だけで?」
「大丈夫だと思います」
簡単に言って、小夜美は地図にペンを当てた。すーっと、二本のきれいな線を書く。
「当日の、日の出と日の入りのときの檜の影です。この延長線上に何か手掛かりがあると思うんですけど……」
初めて、小夜美の顔が曇った。刻が横から聞く。
「何にもないよ。こっちの線は田んぼを通ってるし、こっちの線は一応城下町通ってるけど……ちょっとはずれてる」
「おかしいね。もっと小さい縮尺なのかな。どこかの山とか……」
今度は書きもせずに、小夜美は首を振った。
「だめ。その線の延長線上に目ぼしい山はないわ」
「外れかね?」
板橋は、いささかほっと胸をなでおろした。小夜美が小鼻に指を当てて言う。
「古地図があれば何か該当するかも。板場さん、今ありますか?」
「残念ながら国川のかばんの中だ。さあ、いったん休憩しよう。そろそろ昼だし、国川も拾わにゃならんしな」
小夜美はじっとノートを見つめている。妙に安心して、板橋は車を出した。
「そうすらすら物事は運ばないさ」
町役場で合流した国川は、開口一番、愚痴をたれた。
「ひどいですよ、イタさん。こうなるとわかっててぼくに押し付けたんですか?」
「何がだ?」
車を出しながら、板橋は聞き返した。
「あそこ国有林だったでしょう。こっぴどく叱られちゃいましたよ」
「何を言っとる、おれたちはたまたま通りがかったあそこで、すでにあいていた穴を発見しただけだぞ」
「あっ」
「おまえ、馬鹿正直に埋蔵金堀に行きましたなんて言ったんだろ。そりゃ怒られるよ」
「そうか、しまったな」
国川が頭をかく。
「まあ、とりあえず発見者の登録はしましたから。そっちはどうだったんです」
「食いながら話そう。昼はそばでいいか?」
松屋という看板が出ていた。全員がうなずいたので、そのそば屋に入る。
席に落ち着くと、板橋は小夜美のノートを国川に見せ、説明した。結果を先に聞いた国川が首をかしげる。
「享保六年の日の出の位置を割り出したんですか。イタさん、よくそんなソフト、バイオに入れてましたね」
「そんなものあるか。小夜美ちゃんが全部計算したんだ」
「え? だってこれは……二七八年前、つまり約二五〇万時間も前の日の出を逆算したってことでしょう? 分の位まで、九ケタの計算を暗算でやったっていうんですか?」
「現にやったんだ、この子は」
半信半疑の視線で国川は小夜美を見つめた。小夜美は心ここにあらずと言った感じで窓の外を見ている。
「信じられない……」
「ほんとだよ! 姉ちゃんが嘘つくもんか!」
「いや、嘘だとは言ってないよ」
刻がむきになると、国川は手を振った。
注文したものがやって来ると、四人はしばらく無言でそばをすすった。食べ終わるころになって、刻が変なことに気づいた。
「イタさん、ここなんだか狭いね」
壁際の四人掛けのテーブルで、刻は奥の方に座っていた。その刻のところだけ、壁が内側に突き出ていて、幅が取れなくなっている。店内を見回した板橋が言った。
「柱じゃないようだな。柱は後ろとそっちにある」
「なんだろうね」
ちょうどその時、和風のユニフォームを着た給仕の女の子が通ったので、刻はわざわざ引き留めて聞いた。夏休みだけのアルバイトらしいその子は、可愛らしい東北のイントネーションで答えた。
「そこ、壁の外に松が生えてるんです」
「松が?」
「ええ、もうずいぶんおじいさんの松なんだけど。以前お店を建て替えたときに、店の看板代わりになっていた松を切るのももったいないからって、そこだけよけて建てたんですって」
「へえ、物知りだね」
「あたしも店長に聞いたんですけどね」
それを聞くと、なぜか小夜美が急に眉根を寄せた。
「木が、前から」
「……姉ちゃん?」
「樹齢四百年の。ああ、そうか!」
小夜美は、ぱっと愁眉を開いて刻に声をかけた。
「きざむ、あなた榊ケ丘でほかの木を見なかった?」
「え? 木ならたくさんあったけど……」
「普通のじゃないの。ちょうど二百八十年ぐらい前の。享保のころに植えられたやつが!」「待ってよ……それは……」
「ああ、そうだ! 丘のかみ、神よ! 木である必要もないんだ! お堂かお社みたいなものはなかった?」
「あったあった、そう言えばお社があったよ。頂上より少し下に!」
「国川さん、古地図、出ますか。今」
「古地図? ああ、イタさんのやつ? あるけど……」
「貸してください」
国川がかばんから古地図の写しを出すのももどかしく、ひったくるようにしてそれを受け取ると、小夜美は自分のノートを開いて真剣な目で凝視し始めた。刻に、社の位置を聞く。
「んと……この辺だったな」
小夜美はやにわにテーブルの上を見回し――ペンを探したはずが見つからなかったのか、割り箸を持つと、ソバつゆで古地図の写しに、一気に二本の線を引いた。その線の上を見つめた小夜美の顔が、喜色に染まる。
「わかった!」
「おいおい、なんてことするんだ」
「これで合ってるはずです」
国川の苦情にもかまわず小夜美が地図を差し出した。のぞき込んだ三人は、小夜美の指がさしているところを見た。――線の一本が、榊原と書かれた屋敷の上を通っていた。
「おお……」
板橋が感心しかけ、すぐに首をひねる。
「屋敷の位置は前から分かっていたじゃないか。だからどうした」
「少なくとも何かの意味が生まれたことは認めてくれますよね?」
「まあそりゃ何か意味がありそうだが。この線はどういう考えから導いたんだ?」
「丘にある印は、檜じゃなかったんです」
小夜美は、丘を指さした。
「樹齢四〇〇年とすると、榊原の代よりも前になります。でも榊原が金山の位置を後世に伝えたかったんだとすると、その印は彼が設置したものでなければならない。時代が合わないんです」
「すでにあったものを目印に使ったという考えは? この店の松のように」
「だから、それも誤導なんです! 伝承を真に知っている者なら、おかのかみが神様であることに気づくから。全部ひらがなで記されているのは、そこまで考えてのことなんです!」
「なるほど……でも、ほこらの影なんてせいぜい数メートルだろう。矢印になるのかい」
「実際に影が手掛かりまで伸びる必要はありません。ほこらの位置さえ分かれば、地図上で線を引くことで確認できるから」
小夜美は、二本の線を指さした。
「ほら、こんな風に!」
「ほえー」
刻が口を開け、それから目を皿のようにして地図を見つめた。
「じゃあ、夕日の線は屋敷を指すとして、この朝日の線は?」
「何かない? その線の上に」
盆地の中心の丘から、東に伸びた線は城下町の屋敷を指している。そして西に伸びた線は……。
「ここに、神社がある」
「どこ? ああ、ほんと! 神社。神社と言えば……」
小夜美は、ぐっとこぶしを握り締めた。――喜びを抑えたのだ、と板橋には分かった。
「……算額だわ」
「さんがく?」
「和算が好きな人が、同好の士と問題を見せあった絵馬。――さっき説明したあれよ」
「そんなもの、残ってるかな?」
「きっとあるわ。碓氷の熊野神社には安政四年の算額が残っているし、京都の八坂さんに掲げてあるのは一六九一年、元禄四年のものだもの。ここにも必ずある」
「盛り上がってきたところで悪いけど、トイレ」
地図を覗いていた国川が席を立つ。小夜美はかまわず板橋に訴えた。
「板橋さん、行きましょう! 間違いなくここに手掛かりがあるわ!」
「ふむ……まあ座りなさい。その算額が三百年近く保存されてきたなら、あと二、三時間で朽ち果てたりはしないよ」
「でも……」
スムーズに進みすぎるせいで板橋は慎重になっている。それは小夜美の解析能力が常識はずれに優れているせいなのだが、まだ穴もある、と板橋は考えた。
「もうちょっと詰めようじゃないか。今までの経過を見るとあのこの歌にはすべて二重の意味が隠されているようだが、だったらその夕日の方にも何か解釈があるんじゃないか」
「……それは」
小夜美は言葉に詰まった。
「でも、神社に行けばわかるかも」
「ふむ」
板橋は、ちょっと言葉を切ってカウンターの方を見た。それから、にやっと笑った。
戻ってきた国川が、頭をかく。
「腹減ってたんで、もう一杯ザル頼んじゃったんだけど……どうした?」
「……いえ」
「まあ焦るな! おれもまだ六分目だったんだ!」
はやり立つ小夜美に笑って、板橋は追加を注文した。
結局、夕日の方の線についてはたいした考えも出せないまま、一行はその久保坂八幡という神社に向かった。
そこは昔の村落の中心に位置する小さな社だったが、幸いまだ住み込みの宮司もいる、きちんとした神社のようだった。
小夜美が車から一番に飛び降りて、境内に駆け込む。後からついて行った三人も手伝って、本殿や拝殿を見て回った。
しかし、期待したものはなかった。
見つかったのは、小さな絵馬が一枚だけ。――それは拝殿の柱の陰に打ち付けてあった。が、一家安泰の願い事と、榊原の名、それにかすれた家紋が書いてあったのみだった。
「絶対ここだと思ったのに……」
「その算額は無関係かね」
「これは算額じゃありません、ただの絵馬です」
「そうか……」
三人は石段に腰を下ろして、まだ何かないかと探している刻を見つめた。
「こらあ! また来よったか!」
突然、雷のような一喝が降ってきた。驚いて振り向くと、はかま姿の神職らしい老人が社務所から出てきたところだった。
「これは……どうも、無断で」
「んん? さっきの二人組みじゃないのか」
板橋が謝りかけると、老人はとたんに声のトーンを落とした。くるりと表情を変えて柔和な面持ちになる。
「いや、すまんすまん。ちょっと前におかしな二人組みがうろついていたのでな」
「二人組?」
「断りもせずに拝殿に上がり込んで、中を覗いておった。一喝したら逃げて行きおったが。まったく、神域をなんと心得ておるのか……」
「姉ちゃん!」
振り向いた老人が、みるみる真っ赤な顔になった。
「あの、ここな小僧ッ! ど、土足で拝殿に上がるとは罰当たりな奴め!」
怒り狂う老人にもかまわず、刻が叫んだ。
「ここ、釘抜いたあとがあるよ! 新しいやつが!」
「……まさか」
「あいつらか!」
「待てッ! 逃げるな、冒涜のやからッ!」
刻を追いかける老人を止めるのも忘れて、三人は顔を見合わせた。
「切り上げる?」
小夜美は、湯飲みから顔を上げた。
町の小さな民宿、板橋たちが決めた今宵の宿である。
板橋は、ケントの煙を天井に吐きかけながら、うなずいた。
「潮時、だと思うんだ」
「だってまだ……」
「こよみちゃんの推理がいいセン行っていたのは、認める」
刻と国川もじっと見つめている。板橋は、言葉を選びながら言った。
「しかし、手掛かりは失われた。おれたちよりも先を、プロの二人組が動いてるんだ。寄せ集めの学者と子供のパーティーで対抗できると思うかね」
「やってみなくちゃわかりません!」
「君らはそれでいい。――しかし我々にも都合がある。昨日の発見、北神山の金塊、あれの始末もしなけりゃならんし……。第一、あれが見つかっただけでも大収穫だ。その辺で満足しておこうという気はないかね」
「イタさん、じゃあもう、おれたちと一緒に宝探ししてくれないの?」
捨てられた子犬のような目で見つめる刻から、板橋は目をそらした。
「残念だが……そういうことだ」
小夜美は、じっと板橋を見つめていたが、顔をうつむけて、席を立った。
「わかりました。……きざむ、行きましょう」
「え、でも姉ちゃん……」
「行くわよ!」
心残りな顔でふりむく刻を連れて、小夜美は出ていった。
国川が板橋の向かいに腰を落ち着けて、言った。
「今のは……ちょっとひどいんじゃないですか。期待を持たせておいて、いいところで放り出すなんて、可哀想ですよ。第一、北神山のあれを見つけたのは、ほとんどこよみちゃん一人の手柄なのに」
「そんなことはわかってる。北神山のは、ちゃんと彼女の名前を第一発見者にするさ」
「それにしたって、本当の宝ですか、あの子の理論はちゃんと筋が通ってましたよ。せっかくだから、納得いくまで付き合ってやっても……」
「おまえ、子供を引き連れて歩くのは反対だったんじゃないのか?」
皮肉っぽく言ってから、板橋はあぐらを組み直して身を乗り出した。
「おまえ、わかってるのか。例の二人組は、あの洞窟で、きざむに危害を加えようとしたんだぞ」
「……はあ」
「危険じゃないか」
「教授? ……それじゃ、まさか」
「そうだよ」
板橋は、ふうっと盛大に煙を吐いて、深くうなずいた。
「おれたち二人だけならともかく、あの子供たちまで、得体の知れない連中に狙われちゃたまらんだろ」
「じゃあ、我々だけで?」
「見つける。見つかったら、改めてあの子たちと手柄をわける。謎を解きほぐしていく過程を楽しむ権利は奪ってしまうが、身の安全と引き換えだ。そこらへんを案配してやるのは、これは大人の役目だろ」
「それならそうと言ってやれば……」
「言ったらかみついて離れんだろうよ。こよみちゃんの目、見たろ? あの子は本物の宝探しだ。ああでも言わない限り、諦めさせられないよ」
板橋は、ようやく優しい顔に戻って言った。
「若者たちに道を切り開いてやるのが、我々の努めだ。そう言ったろ?」
国川は、答えず湯飲みをじっと見つめていた。
「がっかりだなあ。せっかくイタさんたちと友達になれたと思ったのに……」
民宿の縁側で、刻はひざを抱えていた。
日が暮れると、盆地に居座っていた熱気も退散していった。秋口のようなさわやかな涼気の中で、気の早い虫たちが鳴いている。
「おとなたちって、そういうものよ」
刻のとなりで、小夜美がそっけなく言った。絵馬をじっとのぞいている。
「おとなだけじゃないわ。……わたしたちは、二人だけなんだから」
「……うん」
刻は、夜空を見上げた。見事な満月が中天高く上っていた。
「なあ、今度の宝、見つかるかなあ」
「見つかるといいわね。昨日の金だけじゃ、私、足りなくって」
「イタさんたちの前でやるなよな。おれびっくりしたよ」
「まだ寝ぼけてたみたい。あなたに怒られて目が覚めたわ」
小夜美は笑った。刻は、板の間にひっくりかえって体を伸ばした。
「……あの二人組に先越されるかもなあ」
「あれ、誰なのかしら」
「イタさんたちがなんとか言ってたよ。……名前は忘れたけど、プロだって。どっかの会社に頼まれた」
「あら、変ね。そういう話は聞いてないけど……」
「ばーちゃん、言い忘れたんだろ。年だから」
「あの人がボケるなんて事、あるもんですか」
小夜美はそっけなく答えた。興味は別の方向に向いているらしかった。
「でも、その二人、どうやってわたしたちの先回りをしてるのかしら」
「わかんねえよ。姉ちゃん考えて」
「それよりも、先に見つける算段をした方が、効果的でしょうね」
小夜美は、再び絵馬に目を落とした。あの久保坂八幡神社に一つだけ残っていたものである。借りてくるには、刻が平謝りに謝り、なおかつ小夜美が拝み倒す必要があったが。
「これだけで先が割り出せればいいんだけど」
「一応それも、榊原が残したやつなんでしょ?」
「らしいわね、あの神主さんの話だと……」
小夜美は、ため息をついた。
「神主さんも、ほかの算額の内容までは覚えてなかったしね……」
「ちょっといいかい」
背後から声をかけられたのは、その時だった。刻がぱっと体を起こす。
「国川さん?」
「しっ。教授に聞こえる」
「聞かれちゃまずいの?」
不思議そうに言った刻に、国川は小声でささやいた。
「あの人、君らに抜け駆けで本物を探すつもりなんだよ」
「……え、どういうこと?」
刻はよく飲み込めないという顔をしている。小夜美が、鋭く聞いた。
「本当ですか? それじゃ、独り占めして……」
「そういう理由じゃない」
国川があわてて手を振った。
「君たちにもしものことがあったらって、心配してるんだ。ほら、例の二人組。あれともしぶつかるようなことになったら、危ないだろ?」
「……そうだったのかあ」
「それじゃ、国川さんはどうしてここに?」
「君たち、どうせあきらめてないだろ? 自分たちだけでも続けるつもりだろう」
二人はうなずいた。国川が笑う。
「ほっとけなくてさ。手伝ってやるよ」
「いいの? だってイタさんまだ……」
「ばれたら怒られるだろうな。ま、仕方ないさ」
あっさり言ってのけた国川をしばらく眺めると、刻は両手をあわせて拝んだ。
「国川さん、ありがとー……」
「さて、それじゃ昼間の続きだ」
国川は、二人の隣に腰を下ろして、小夜美の手の絵馬をのぞき込んだ。
「これが手掛かりなのははっきりしてるよな。あそこまで見事に朝日夕日のラインが一致したんだから……。文面は家内安全、商売繁盛か。まさかこれが暗号ってことはないよなあ」
五寸四方ぐらいの絵馬を、国川はひねくり回して天にかざしたりした。
「この家紋がヒントとかなあ」
「たしかに鍵桐の家紋は珍しいけど……」
もう一度ひねくり回して、月明かりに透かすようにする。
「あぶり出しとか……透かし彫りとか……」
そばで同じようにそれを見上げた小夜美が、ふと目を細めた。
板の彼方に、まるい月が出ている。
「円……」
じっと絵馬を凝視してから、小夜美は足元をまさぐった。それから、言った。
「きざむ、わたしのノートは」
「部屋だよ」
小夜美は引ったくるようにして国川の手から絵馬を奪うと、脱兎のように駆け出していった。あぜんとして国川がつぶやく。
「もっとおとなしい子だと思っていたんだけど」
「今は涼しいからね。差が極端なんだよ」
刻が、あっけらかんと言った。_
参 黄金追ふ者
「わかった……」
机の上の書き込みだらけのノートから顔を上げて、小夜美はつぶやいた。目の下の皮膚は薄く黒ずみ、髪の毛も乱れている。
窓の外の東の空が、ゆっくりと白んできた。一晩中、考えていたのである。
布団の上では、刻が待ちくたびれてすうすう寝こけている。手を伸ばしてから、思い止どまる。まず、顔を洗って来よう。
古い民宿の和室だから、洗面台などない。
タオルを持って一階に降りる。廊下の向こうに国川の姿があった。
「国川さ……」
話し声が聞こえる。朝も早いというのに、誰かと電話しているらしい。小夜美は、声をかけるのを控えて、洗面所に向かった。
顔を洗ってからいったん玄関に出る。階段のところに戻ってくると、ばったりと国川と出会った。
「お? 早いな。いや、もしかして徹夜で?」
「はい」
「首尾は?」
「わかりました」
「そうか! いや、ここじゃまずい。君たちの部屋に行っていいか?」
「散らかってますけど」
隣の部屋の板橋を起こさないように自室に戻ると、小夜美は刻を軽くけとばした。むにゃむにゃ言いながら目を覚ます。
「作戦会議よ」
「え? 解けたの?」
眠気も吹っ飛んだという顔で、がばっとはね起きる。
上がってきた国川と刻を机の向かいに座らせると、小夜美はやや押さえた声で話し始めた。書き散らしたノートはわきにどけてある。
「わたしの元にあった手掛かりは、和歌と、資料館での発見、それに神社で見つけた、正しいかどうか分からない絵馬だけでした。これだけではどうしようもないかと思ったんだけど、国川さんがヒントを下さったので、糸口が見つかったんです」
「ぼくの?」
答えず、小夜美は絵馬を差し出した。
「この鍵桐の紋、和歌、榊原の性格。共通するものはなんだか、分かる? きざむ」
「おれ、そういうの苦手。まだ寝起きだし」
「あなたはいつもそうなんだから……国川さん?」
「分かりそうな気がするんだが、ちょっと……。続きを頼むよ」
「和歌から行きます」
小夜美は、ノートのページを開いた。こう書かれていた。
〈朝日差し 夕日輝く 丘の上 玄武山麓 まるどう万両〉
「朝日夕日は枕詞、丘の上流、玄武の山すそに宝がある。まるどうは品物の名前。これが、国川さんたちの解釈でしたよね」
「ああ」
「すべて間違いなんです」
「……すべて?」
ぽかんと国川は口を開けた。小夜美は、その隣に新しく文字を書いた。
「最後の万両だけはどうか分かりませんけど。正しくはこうです」
〈朝日差し 夕日輝く 丘の神 弦部 三 六 丸 十 万両〉
「……なんだこりゃ、全然意味が分からないぞ」
「そうですか? じゃあ、この事実はどうですか。榊原は和算が趣味だった。和算で好まれるのは、円理、円に関する図形問題である」
「……あっ!」
刻が声を上げた。机の端に置いてあった絵馬を指さす。
「これ! 鍵桐も円じゃんか!」
「弦と丸か。なるほど、キーワードは円だな?」
「国川さん、満月に絵馬を透かしていましたよね。それで気が付いたんです」
小夜美はうなずいた。
「大体、ふつう絵馬に家紋なんか入れますか? 絵馬の本文は関係ないんです。多分、とられた他の算額にも、違和感を抱かせないように鍵桐紋が書いてあったと思うんですけど」
「そうに違いない。それで?」
「これを見てください」
小夜美は、ノートをくって図形を見せた。
「刻、これ何に見える?」
「何って……紋でしょ」
「そう。じゃあ、こっちは?」
「八十島の地図」
「気が付かない?」
刻と、隣の国川は交互に二枚の図に目を走らせた。古地図は小夜美が写したものらしく、地形と集落が書かれ、三つのポイントが赤で記されていた。榊ケ丘、旧榊原邸、久保坂八幡神社。丘が盆地の中心あたりで、屋敷と神社は東西に離れている。
「点が三つ。円が三つ」
「すると……まさか、これらの点が、円の中心?」
「そうです」
「うーん……わからないな。ひとつ分かってもすぐ行き詰まる。これから?」
「次の手掛かりは、歌の文句。弦部、三、六。弦というのは、円周上の二点を結ぶ直線のことです。鍵桐紋は、柄の部分の円が、それぞれ隣の円と重なっていますよね? その交点を結べば、二本の弦ができる。つまり、直線が二つ得られるんです。三・六はそれぞれの弦の長さでしょう」
「なんかこじつけっぽいなあ」
刻は、うさん臭そうに姉を見た。
「ほんとにそれでいいの? 都合のいいように都合のいいように解釈してない?」
「宝探しっていうのは、突き詰めれば平面上の一点を導出する作業よ。一番簡単な方法は、二つの位置から方角を指定すること。つまり、平行でない直線が二本得られればいい。そういう考えでやってるの」
「続けてくれ。方針は間違ってないと思う」
「弦の長さが分かっただけじゃ、その方角はまだ決定できません。でも、その後にまだ数値が与えられています。丸、十。真ん中の、榊ケ丘を中心とする円の大きさが十なんです。これで、三つの円の大きさが決定できて、二本の弦の方角も定まります」
「数字の単位は?」
「三里、六里と考えると、盆地からはみだしてしまいます。逆に間や丈だと、円同士が交わりません。だから、町です」
小夜美は、シャープペンシルを握った。八十島の盆地の中央に、市街地に、農村部に、三つの円が書き込まれる。定規もコンパスも使っていないのに、円はきれいな真円に、弦は確かに三対六の長さになっているように見えた。
「二つの線を延長すると……」
南へ向かって伸びた二本の線が、市街地から一〇キロほど離れた山奥で交わった。
「ここが、目的地」
「へえ……案外あっさり見つかったじゃん」
「いや、どうかな」
国川は、じっと小夜美の顔を見つめている。
「日の出の位置の逆算をしたことといい、こんな精度で目的地を割り出したことといい、普通の人間に簡単にできることじゃないよ。こよみちゃん、君は……たいした子だ」
「江戸時代の榊原氏のほうがすごいと思いますよ。こんな複雑な謎かけを考案して、お社を建てて、散逸に備えて多くの算額を残して……」
小夜美は、ふと遠い目をした。
「共感を覚えます。だから……金山を手に入れることができたのかも。刻もそう思わない?」
「おもしろいおっさんだったって気がするな。多少理屈っぽかったかも知れないけど」
「そこを見込まれたのかもね」
「よし、それじゃあ早速出掛けるか!」
国川は、立ち上がった。
「朝メシ、コンビニになっちゃうけどいいよな?」
「もちろん!」
二人は、荷造りを始めた。
「この車、勝手に乗ってきちゃったけど、いいかなあ」
「レンタル料は、一週間分前払いで払ってきたよ」
「でも、イタさん移動できないよね」
「気になる?」
助手席の刻に、後ろから小夜美が声をかけた。別に……と歯切れの悪い返事を刻は返す。「あとで謝れば、わかってくれるわよ」
「でも……」
「きざむ」
小夜美が、妙に厳しい声で言った。刻は、小さくうなずいた。
バンは盆地を離れ、営林署が拓いたらしい名もない林道へと入って行く。道路は途中で舗装が途切れ、雨水がえぐった深い溝が残る砂利道になり、最後にはそれも行き止まりになった。
「ここからは、徒歩ですね」
「お、ちょい待ち」
バンから荷物を下ろすと、国川が茂みの中へ入った。
「国川さん、トイレ? おれも」
「悪い、大の方だ」
「そうなの?」
刻は森の手前でさっさと用を足し、姉のところに戻った。
「姉ちゃんはいい?」
「ええ」
「……どうしたの?」
姉の顔から表情が消えている。
「暑いの? またダウンしそう?」
「大丈夫よ。……なんでもないわ」
麦わら帽子を目深にかぶり、愛用の杖を持つ。そこへ、国川が戻ってきた。一行は、かろうじて人が通れるほどの細い杣道を歩きだした。
沢の斜面をたどる道である。そこかしこで鳥が鳴き交わし、アブがやかましく顔にまとわりつき、下生えの間を何かがガサガサと逃げて行く。人気はなく、目印もなく、しばしば道さえもなくなった。
そのたびに、小夜美が方向を指示した。空を仰ぎ、風向きを読み、対岸の山肌を見て自信に満ちた態度で方角を決める。荷物こそ杖だけで身軽だったが、確かな足取りは、初日にずっと暑さに負けて眠っていた少女とは思えない。
半日ほど歩くと、川べりに出た。下がったのではなく、川の高さが上がって来たのだ。両岸から木々が差し出した枝に隠されそうなほど細い小川で、三人は荷物を下ろして小休止した。
小夜美が、水の中に落ちていた白っぽい石を拾い上げ、刻に渡した。刻はナップザックから、厚い刃の付いたタガネを取り出した。国川は、それに見覚えがあった。北神山で、男たちと渡り合っていたときに刻が持っていたものだ。
にび色に輝く刃先と使い込まれて茶色く変色した柄が、ただの刃物とも思えない。
「使い込んでるね」
「鉢割って言うんだ。ただのタガネじゃないんだよ」
刻は、石をいろいろな角度で眺めてから地面に置き、そっと刃先を当てた。国川はハンマーを出してやろうとしたが、必要なかった。
軽く引かれた刃先が、すっと消えた。刻が目にもとまらぬ速さで石に打ち付けたのだ。澄んだ音とともに、石は二つに割れた。
国川は、割られた石を手にとって断面をしげしげと見つめた。自然に吐息が漏れる。
「……カッターで切ったみたいだ」
「こういう石には、石目っていう筋があるんだ。うまくそこを突けばきれいに割れるんだよ」
「すごいじゃないか」
「でもおれ、それぐらいしか取り柄がないし」
刻が頭をかく。国川は、うなずきながら断面をのぞき込んだ。
濃度の違う白いしまが何本も並んでいる。その間に、キラリと光るものを見つけて、息を呑む。
「これは!」
「白いところは石英鉱です。貸してください」
小夜美が、石を受け取って足元の岩にこすりつけた。そこに残ったのは、金色の線だった。国川が震える声で聞く。
「まさか、そうなのか?」
「ええ。珪酸性含金鉱です。条痕が黒くなったら、黄鉄鉱だけど」
顔を上げて、上流の方を見つめる。
「間違いありません。……この上に、金山があるわ」
揺るがぬ確信に満ちた言葉だった。
「君たち……すごいじゃないか! どうして分かったんだ?」
「急ぎませんか」
小夜美は、立ち上がった。
「もう少しです」
一飛びで渡れそうなほど狭くなった渓流から、さらに一本奥に入った細い細い支流をさかのぼった。
そこは特に木々が密集しているような、容易に踏み込めないような森の中だった。
「こんなところに?」
「よく見てください。――そこに水槽と樋の跡があります」
言われると、足元に朽ち果てた木製の何かが転がっていた。
「くぼ地になってるわ。人の手で切り開かれた跡がある。ここで採金をしてたんだ。多分、江戸時代からずっと放置されてる」
切り開かれたと言われても、国川には最初、よく分からなかった。目をこらして、密生する木々が地形から取り除かれたところを想像してみる。すると確かに、地面の傾斜は、三人が立っている位置を底とする、すり鉢状になっているようだった。
「よく気が付くな……」
もはや言葉もなく、国川はうめいた。
「……あれだ。あれだよ、姉ちゃん」
刻が、山側の斜面を指さした。そこは、他よりもいっそううずたかく落ち葉が積もり、一見して他のところと区別のつかないような斜面だった。
「この下に?」
国川は、そこに近寄ってから、舌打ちした。
「しまったな……マインスイーパーは教授の荷物だ。持って来たらよかった」
「これで十分です」
小夜美が、手にした杖を構えて前に出る。国川が疑問の声を上げる。
「検土杖一本で、なんとかなるのか」
「しっ……姉ちゃんに任せて」
刻が制した。
斜面に杖を差し込みながら、小夜美が注意深く横に歩いていく。一カ所、また一カ所。盲人が地面を探るように、手先の感覚のみに頼る横方向への走査を二〇メートルほど続けてから、何の変哲もない斜面の前で、小夜美がついに足を止めた。
「手ごたえが薄い……きざむ、ここお願い!」
「アイサー!」
刻が駆け寄る。手にしているのは小さなスコップだ。ただ一つのその道具が、刻に操られるとパワーショベルのような効果を発揮した。見守る国川の前に、みるみる小型のぼた山が築かれていく。
為すこともなく手持ち無沙汰に突っ立っていた国川の頭に、ふと一つの謎が浮かんだ。
「こんな山の中の小さな金鉱を、榊原はどうやって見つけだしたんだろうな」
「彼に、それを教えた者がいるんです」
「教えた?」
国川は振り返った。その推測の根拠はなんだ、と聞こうと思っていた。だが、小夜美の顔を見たとたん、そうではないことに気づいた。
何の迷いも感じられない、確信に満ちた表情だった。
事実なのだ。小夜美は、知っているから言ったのだ。
「君たちは……」
「姉ちゃん! あった!」
「出たわね」
小夜美は、国川の横をすっと通り過ぎて、刻のそばに立った。
異常なまでの手際のよさで刻が掘り進めた横穴の中に、表面の土を払われて、縦横一メートル半ほどの大きさの木の板が立ちはだかっていた。のぞき込んだ国川は、凍りついた。 板の表面には、数十本の縦横の線が引かれ、それがマス目を形成していた。おのおののマスの中には、一つずつ漢字が彫り込まれている。
異様なのは、そのマスの寸分の狂いもない精確さだった。それを彫り込むことは江戸期の人間にもできただろう。だが、長い年月、土砂に覆われてなお、線の一本も、文字のひとつも欠け崩れていないというのは――それよりも、明らかに木でできているその板が、湿気にも腐らず虫食いにも負けずに二八〇年の年月を耐えてきたのはなぜか? どうやってそんな処置を?
小夜美の一言が、生まれつつあった国川の疑惑を完成させた。
「間違いないわ。喪人符だ」
「君たちは!」
国川は、叫んだ。
「君たちは、知っていたんだな!」
「ええ……榊原は、ある人からこの金鉱の位置を教えられ、採掘しました。それを元手に、商売を広げたんです」
小夜美が、ゆっくりと振り向いて言った。
「金山を教えた人は、ある一族の一員でした。一族によって、金山のことは子に、孫に伝えられ、ずっと先の子孫にまで受け継がれたんです」
「君たちは、何者なんだ?」
「その質問、そっくりお返しします」
小夜美は、意外なことを言った。刻がその顔を見上げる。
「姉ちゃん?」
「平手さんたちとあなたは、どういう関係なんですか?」
その一言の効果は、劇的なものだった。国川が、さっと顔を青ざめさせて、後ろに下がったのだ。
「どうして……知ってるんだ。あの人たちのことまで」
「いいえ」
「……なんだって?」
国川は、いぶかしげに聞き返した。小夜美は、悲しそうに首を振った。
「何も知りません、平手なんて人のことは」
「知らないって、一体……どういう、何を言ってるんだ?」
「わたしが知ってるのは、きざむを襲った人達の名前だけ。そして」
小夜美は、まっすぐに国川を見つめながら言った。
「あなたが、今朝、誰かに電話をしていた事実」
「き、聞いて?」
「いいえ。でも、あなたはいつも誰かと連絡を取っていた。榊ケ丘でも、北神山でも、おそばやさんでも、ついさっき車から降りたときも。一体誰と電話していたんですか?」
いくつも連続したカマを続けざまにかけられたと気づいて、国川は赤くなった。何か叫ぼうとし、不意に表情を険しくして、抑えた声で言う。
「……そのとおりだ。ぼくは、あの二人と連絡を取っていた」
「姉ちゃん? どうなってるの?」
「きざむ、わたしを守って」
「……う、うん」
刻が小夜美の前に立つ。弟の頭越しに、小夜美は聞いた。
「情報を盗んでいたんでしょう。最初は板橋さんから、わたしが使い物になりそうだと思ったら、わたしから」
「そうだよ」
認めるのがいやそうに、首を振りながら国川は言った。
「もう隠してもしょうがないな。でも言っとくが、あいつらから話を持ちかけて来たんだぞ。ぼくから言い出したわけじゃない。彼らは、埋蔵金に興味を持っていた教授に目をつけていた。たまたま教授の講座にぼくが入った。だから彼らが接触してきた。そういう順序だ」
「そして、今回、板橋さんが見込みがありそうな埋蔵金の話を聞き付けたとき、彼をたきつけて探索に出掛けさせ、その調査結果を横流ししようとしていた。また、実際にやった。そうですね?」
「教授は欲がないからな。宝を調べることさえできれば、自分のものにならなくてもいいって言っていた。いい人だ。でも、おれは普通の人間だよ。埋蔵金が見つかったら欲しいし、金山だって欲しい。普通の人間ならあたりまえのことだろう? 少なくとも、あのトレジャー・ドワーフの二人は、そう言ってくれた」
小夜美は、少しだけ眉を動かした。
「国川さん……あなたは、利用されています」
「分かってるよ! でも、いいんだよ! 全部なんてだいそれたことはいわない。一割でも、手に入れば……!」
「そんな人には渡せない、と言ったら?」
悲鳴のような声を上げた国川に、小夜美が冷たく言ったとき。
「話し合いの余地はないのかな」
国川の背後から、声が聞こえた。二人の男が現れる。刻が小さな声を上げた。
「姉ちゃん!」
「きざむ、頼むわよ」
少年が立ちはだかる前に、男たちは並んで立った。後ろから国川が細い声で言う。
「平手さん、成田さん……すみません、最後のところでバレました」
「いいよ、ありがとう。ここまでわかればもう文句はない」
「こよみさん、だね。一昨日の夜はすまなかった。私たちも焦っていたから」
二人の片割れが、穏やかな声で言った。
「君の推理力には参ったよ。特に算額のことでは、顔から火が出る思いだ。私たちが手に入れたものはどれもただの演習問題が書かれているばかりで、一晩必死にそれを解いていたんだ。家紋が鍵だとは気づかなかった」
「情報の横取りをしていたことは、謝ろう。謝罪を形にしてもいい。だがそれは後に回すとして、目の前のこの宝、失われていた金山について、協力を頼んでもいいかな?」
「協力ですって?」
小夜美は言った。冷たい声だった。
「そうだよ。君たち二人だけで、何ができる? 金鉱はツルハシとスコップだけで掘れるものじゃない。大人の力と、組織がいるだろう。業界では知られていることだけど、私たちトレジャー・ドワーフは、ある会社にバックアップしてもらっている。その力を借りれば、ここを採掘することができる。採算が取れるほどの金が出たなら、その時には君たちにも半分の権利を渡そう」
「あなたたち二人で何ができるの?」
小夜美が切り返した。
「喪人符のことは? その開け方は知っているの? 二十マス四方、四百の文字を一つも間違えずに押し抜かないと、この板だけじゃなくて坑道全体が崩れるようになっているのよ。鉱脈はその坑道の中にしか露出していない。今まで、この山の他のどこからも金が見つかったって言う話はないんだから」
「それが本当なら、君に開け方を聞くしかない。――その分の見返りも、考えてもいい」
「信じられないわ」
小夜美は、言い放った。成田と呼ばれた上背のある方が首をかしげる。
「どうして? 私たちが嘘をつくとでも?」
「もうついているもの」
小夜美は、倍以上の目方がありそうな成田をにらみつけた。
「トレジャー・ドワーフなんて名前、名乗ったこともないけれど、人にそう言われているのは知ってる。――それは、わたしたちのことだもの」
二人の男たちの間に、国川の顔に、動揺が走った。
「……君たちが!」
「きざむ、あなたも世間の噂をちゃんと覚えておきなさい。自分たちがなんて言われているかも覚えていないなんて、うっかりしすぎだわ」
「……だって、姉ちゃんが聞いてれば、おれが覚える必要ないから」
「今回みたいにわたしが聞いていなかったらどうするの?」
「そうか、ごめん」
刻は、素直に頭を下げた。
二人の宝探しは、目配せしあった。
「君たちが……いや、それならわかる。あの信じられない推理力も」
「わかってもらえたかしら」
「ああ、知ってる。別のことも。トレジャー・ドワーフは、見つけた黄金を決して人手に渡さない」
「そうよ」
「そういうわけには……いかない!」
突然、二人は飛びかかってきた。さきほどまでの穏やかな表情は消えている。その顔は、狂った獣、まさに黄金の匂いに狂った人間の顔だった。
「きざむ!」
小夜美が下がる。刻が出る。その手に光るのは鉢割である。
「どけっ!」
つかみ掛かったきた平手の腕を、刻はしゃがんで避けた。鉢割を逆手に持ち替える。その尻をすばやく突き出す。
平手は避けようとした。そして成田が躍りかかった。
だが、横に流れた平手の鳩尾に、ついで、飛びかかってきた成田の喉仏に、刻の右手は信じられないような正確さで、堅い木の柄を突きこんでいた。
二人の大人が、車にはねられたように仰向けに吹っ飛んだ。並の人間の力ではこうはいかない。刻の腕力があってこその一撃だった。
「姉ちゃん……」
振り返った横を、誰かがつんのめるようにして走り過ぎた。
国川だった。青年は、身を固くした小夜美を抱きかかえるように捕まえると、必死の面持ちで叫んだ。
「きざむ、動くな!」
「そんな、国川さん! 何するんだよ!」
刻が顔を歪めて叫ぶ。国川は、じりじりと後退りしながら、泣き出しそうな顔で言った。「ケガさせたくないんだよ。悪いようにはしないよ」
「どうするつもりなの? こんなことをして、金を手に入れられると思うの?」
「どうするって、知るかよ! 平手さんたちになんとか……やってもらうんだよ! 君らとのことはなかったことにして、穏便に、おれは、ああ!」
事態の急展開についていけずに、なんとかしようという気持ちだけが先走ったらしい。人質を取ったもののどうしていいのか分からないでいる国川の腕の中でもがきながら、小夜美は叫んだ。
「きざむ! 助けて!」
「だって姉ちゃん、国川さん、悪い人じゃないよ。おれ……できないよ!」
鉢割を構えたものの、刻は一歩も動けない。
そのとき、野太い声が森の中から響いた。
「国川! なにをやっとる!」
木の影から、顔の下半分をヒゲだらけにした巨漢が現れた。
「目を覚まさんか! おれの教室にやって来たときの、あの学問への情熱に燃えていたおまえはどこへ行った?」
雷に打たれたように国川は硬直した。
「板橋教授……」
「さあ、その手を離せ。おまえはそんな大それたことのできる人間じゃないはずだ。それはおれがよく知ってる」
「教授……ぼくは……」
ふらり、と国川はよろめいた。小夜美がその隙に、たっと駆け出す。刻が抱き着いた。
「無事か?」
「はい」
板橋が二人の肩に手を置く。刻が、姉の胸に顔を押し付けて泣き始めた。
「イタさん、でもよくここが分かったね」
「そいつはこよみちゃんのおかげだ。目が覚めたら誰もいなかったんでびっくりしたぞ。靴箱の中のメモを見るまでに、旅館中の人間を叩き起こしちまった」
「え? じゃあ姉ちゃん、国川さんが怪しいって気づいてたの?」
「ええ。でも、彼が使われているだけだっていうのもわかったから。あの二人と実際に会うまでは、だまされ続けている必要があったの」
「言ってくれればいいのに」
「あなたはすぐ顔に出るからだめ」
まだ赤く泣いた跡がついている弟の頭を、小夜美が軽くこづいた。
板橋は、ちらっと振り向いた。ベルトで木に縛り付けた二人組は動いていない。
小夜美が、坑道をふさぐ板のマス目を一つずつ指さし、刻がそのとおりに鉢割で打ち抜いていく。それを見ながら、板橋は聞いた。
「これは、なんと言った?」
「喪人符。わたしたちの一族が鉱山を封印するのに用いるものです」
「君たちの一族か」
板橋は、そばの小夜美を振り返った。
「できれば、話してほしいんだがね」
「板橋さん……」
小夜美は、男のひげ面をじっと見つめた。それから、ため息をついた。
「わかって下さると思うけど、ものすごい金がからむんです」
「ほう」
「金は人を惑わします。国川さんのように。だから、人には話したくない。――でも板橋さん。板橋さんには話してもいい気がします。よそで話さないと約束さえしてくれれば」
「……わかった。約束しよう」
板橋は、深くうなずいた。小夜美がこくんと首を動かす。
「信じます。……わたしたちの苗字、覚えていますか」
「かなもり、と言ったかな。どういう字を書くんだ?」
「神無森、神なき森と書きます。でもそれは後代になってからの当て字で、元の姓は金を守ると書きました」
「金守――」
「わたしときざむは、あの甲斐武田に仕えた金山衆と同じように、全国をめぐって金山を探す、専門の鉱業集団の末裔なんです」
「それは、今でも活動を?」
「わたしたちの親の代までは。わたしたちもそのように育てられました。わたしは山師、きざむは堀子」
「一族ぐるみ、英才教育の金山衆か!」
板橋はうなった。小夜美が刻の手元を見ながら言う。
「杖一本を頼りに全国を歩いて、山の形、川の流れ、石の色、木の茂りを見抜き、ひとたび掘れば千尺の油井をも一寸違わず掘り抜く能力を、わたしは身につけさせられました」
刻に目を移す。将棋盤のような小さなマス目を、一つずつ確実に打ち抜いている。
「きざむは石を掘る力を。狭い隙間に無理な姿勢で入れられて、鉢割一本で金づちすら使えなくても、一撃で鉱石を割れる腕力と、石目を見抜く目を鍛えられたんです」
「信じられんが……君らの能力を見ていると、信じざるをえんようだな」
「いいんです、信じてくれないほうが」
小夜美は、ちょっと悲しそうな目になった。
「信じるのは、わたしたちの能力目当ての人ばかり。こんな力があるばっかりに、わたしたちの祖先は数え切れない陰謀に巻き込まれてきました。金を見つける猟犬として」
「おれは信じるよ。でも忘れよう」
小夜美は、顔を上げた。
「おれの胸一つに収めておくよ。そうする約束だ」
「ありがとうございます」
小夜美は頭を下げた。
「姉ちゃん、開いたよ」
刻が言って、立ち上がった。板には、すべてのマス目が打ち抜かれた、六〇センチ四方ほどの穴が空いていた。
中に入る前に、板橋がもう一度後ろを振り返った。少し離れたところで、国川は座り込んだまま、動かなかった。
板をくぐって、中に入る。床に落ちている数百の木片を、板橋は踏みながら観察した。
「なるほど……木のカギだな。一つ一つが隣のカギに引っ掛かっていて、正しい順序で打ち抜かないと、連鎖反応的に外枠までごそっと抜けるわけだ。外枠が抜けると……」
壁から、二メートルほどの高さの天井を見上げる。入り口をふさぐ板から腕木が伸び、数メートル間隔で立つ支柱の上部を、ずっと奥まで貫いていた。
「腕木が支柱を倒し、落盤が起きるというわけか」
「坑口以外から抜け穴を掘り抜こうとしても、腕木を折ってしまうからやっぱり落盤がおきます」
「恐ろしく精巧な仕掛けだな。木を腐らせない技術といい……」
四百字のキーワードを余さず覚えている小夜美の能力も、一族の血によるものだろうか。そんな話は日本史の教科書どころか、古文書を総当たりにする宝探しの世界でも聞いたことがない。
「しかし、この構造だと、外からは仕上げはできんな。最後の一人が抜けた穴がどこかにあるんじゃないか?」
「ありません」
なぜ、と聞こうとして板橋は言葉を飲み込んだ。数歩先の地面を小夜美が照らしている。そこに、白骨が横たわっていた。
「だから、人を失う護符と言うんです」
小夜美が白っぽい顔色で言った。
板橋は身震いした。彼は、今まさに、歴史の表から抹殺された影の世界に踏み込んだのだった。
懐中電灯の光を頼りに長い斜坑を下りながら、板橋が聞いた。
「君らの一族ってのが、例の会社なのか? その後押しできているって言う。いや、さっき物陰から聞いたんだが」
「神無森ケミックっていう化学会社です。直接には関係ないんですけど」
「関係ない? じゃ、トレジャー・ドワーフ云々はハッタリか」
「ばあちゃんが会社の社長なんだよ」
刻が振り返って言った。小夜美が付け加える。
「私的に頼まれて来た旅行ですから、会社とは関係ありません」
「どうして、君たちのような子供が」
「子供しかいないから、仕方ないんです」
小夜美は、淡々と言った。
「親の代までは、と言ったでしょ? 神無森の一族は、以前落盤事故で丸ごと生き埋めになってしまったんです。……八十島に来たのは、わたしたちに伝えられた限りの金山を再確認するため。ここのは、詳しく伝わっていなかったからこんなに手がかかっちゃったけど……」
「そういうわけか……」
板橋が、厳粛にうなずいた。
さらに十分ほど歩いたとき、小夜美が不意に立ち止まって言った。
「やっとつきました。神無森の隠し金山です」
最初、板橋は、そこが今までとどう違うのか気が付かなかった。心持ち明るくなったような気がしただけだった。
その明かりの源に気づいたとき、彼は愕然とした。
白っぽい石英鉱がぎざぎざの角を露出しているだけだった壁面が、まばゆいばかりの金色に染まっていたのだ。
「すげえ……」
「これは……!」
板橋は、壁から石のかけらを抜き取った。ずっしりと重い。
「いやすごい……これならトン当たり五〇、いや一〇〇グラム近くの含有量があるな」
「すごいの?」
聞いた刻に、板橋は震える声で言った。
「採算がとれるどころじゃない。南アフリカの金山の二〇倍近いぞ、ここの品質は」
「どうかしら」
小夜美は、少し下った坑道の先から言った。
「ここまでくると、もう鉱脈が消えてます。細いわ。商業ベースに乗るかどうか」
「そうか?」
「もっと太ければ、とっくにどこかで露頭になって誰かに見つかっています」
「じゃあ……金鉱としての価値はそれほどでもないな」
上の空で、板橋は言った。
「イタさん、あんまりがっかりしてないね」
「言っただろう。おれが欲しいのは金そのものじゃない。古代の人が金にかけた欲望や願望、その痕跡を見つけたいんだ」
板橋は、両手を広げた。
「この鉱脈こそ、かつてここに渦巻いていた人々の欲望の証じゃないか! 鉱山にならんのならかえって好都合なぐらいだ。ぜひとも地上に拠点を作って、本格的な調査を」
「板橋さん」
「……できんのだったな。ああ、惜しいな!」
板橋は、心底残念そうに地団駄を踏んだ。
「しかしなあ……君らはどうなんだ。お婆さんが頼んだのも、会社として鉱山にする気があったからじゃないのか? それが無理なんだから……」
「それはあの人の都合だもの。わたしたちがほしいのも、金じゃないんです」
「金じゃない?」
「金鉱石。純金じゃないの」
「鉱石を? どうしてそんなことを……」
そこまで言ったとき、後ろから足音が迫った。振り向いた三人の目に映ったのは、二人の男の姿だった。
「動くなよ、こいつの命が惜しかったら」
「国川!」
板橋が叫んだ。平手の後ろで、青年は成田にナイフを突き付けられていた。細い声でうめく。
「すんません、板橋さん……ちょっとベルトをゆるめてやるだけのつもりだったんですけど……」
「彼が裏切ったんでないことは保証する。――ただ、私たちの機転がそれを上回っただけだ」
平手が、ていねいな口調で言った。しかし、その言葉にはもはや穏やかさはなく、冷え冷えとした無感動さがのぞいていた。
「すごい……大変な鉱脈だな。これなら十分元が取れるぞ」
輝く壁を見つめた成田が感極まったようにつぶやく。小夜美がそれを遮った。
「無駄よ、この先ですぐ鉱脈は終わっているから。採算は取れないわ」
「それは、この坑道を利用して人力で掘った場合だろう」
成田は、もはや敵意を隠そうともせずあざ笑った。
「そんな江戸時代の方法は使わない。幸い現代には発破やバックホウがある。この辺なら民家もないし、尾根ごと吹っ飛ばせばそう手間はかからないよ」
「この貴重な遺跡を……吹っ飛ばすだと?」
板橋が、獅子のように吠えた。
「そんなことはさせん!」
「あんたたちは見なくてすむよ。坑道の奥で、静かに眠ってもらうからな」
「そんなことまでしなくても!」
悲鳴を上げた国川を、成田がとうとう殴りつけた。怒鳴るかと思いきや、背筋が冷えるような静かな声を耳にささやきかける。
「いいから黙れよ。……一緒に死ぬか? それとも、分け前に預かりたいか?」
板橋たちは凍りついた。悪魔のささやきだった。三組の目が、青年に注がれた。
国川は、ぶるぶるとほおを引きつらせていたが、やがて小さくうなずいた。
「よし……正直者だな」
視線を外したとき、隙ができた。国川が、足を跳ね上げて成田を蹴ったのだ。
「痛ッ!」
「離せ!」
平手との揉み合いになる。とっさに板橋が飛びかかろうとしたが、跳ね起きた成田がそれを突き飛ばした。
兄妹の足元に板橋の巨体が倒れる。その向こうで、国川は壁に押さえ付けられた。
「くそうっ!」
「いい子ぶるんじゃねえよ!」
「国川さん……」
つぶやいた刻が、何かに目をとめた。
「姉ちゃん、支保抜きは」
「そんな、ここまで来たのに」
「でも、国川さん助けなきゃ」
「……」
「ここ意外にもきっとあるよ。お願い!」
「……きざむ」
小夜美は、頭上を仰いだ。それから、ひとかたまりになった国川たち三人の左右に目を走らせた。
「左一、右二よ」
カァン! と乾いた音が響く。刻が鉢割で左の柱を突いたのだ。数百年の時を耐え抜くよう変質させられてはいても、木は木だった。それが折れる音は、普通の木材のようなベキッという音だった。
その力がどう伝わったのか、平手の頭上の天井がどっと崩落した。平手の姿が、かき消すように土砂の下に消える。成田がぎょっとした顔で飛びのく。
「右!」
刻が反対側の柱に飛びつき、鉢割を振るう。一度きり、だがそれは正確に木目をとらえている。応力の最も集中する場所を破壊された柱は、残りの組織で重量を支え切れず、割れ弾けた。
「うっ?」
飛んだ木片が目に入り、成田が顔を押さえる。その上に、再び土砂が崩れ落ちた。
「ふたりとも、えらいぞ!」
「走って!」
称賛の声にもかまわず、二人は板橋と国川に体当たりするように押した。
「腕木も一緒に折れたわ! 落盤が始まる!」
四人は、地の底の魔物に追いかけられるように、必死に斜面を駆け上がった。
地底から、その魔物のうなりのような地響きが聞こえてきた。 _
結
「じゃ、達者でな」
屋根も何もないかんかん照りのプラットホームで、板橋が手を振った。後ろには国川も立っている。
「イタさん、一緒に帰ってくれないの?」
ワンマン車両のステップで、刻が寂しそうに振り返って言った。
「だから言っただろが、例の北神山のやつ。あれの申請を国川がまだやっとらんから、登録しなければならんのだ」
「すみません……平手さんたちに止められてたんで」
「さんはつけんでいい。名前も口にするな」
「あ、はい」
「あれは魔物だ。おまえを食い物にしに来た……」
ピーイッ! と運転手が笛を吹いた。ドアが閉まる。
窓から顔を出して、刻が手を振った。
「手紙書くからね! また会おうね!」
「ああ」
「イタさんたちも書いてねー!」
「おー」
「さようならーっ!」
ディーゼルの薄い黒煙を残して、水田の間の線路を列車は去って行った。刻は、見えなくなるまで手を振っていた。
「さて……戻るか」
途中まで行って、振り返る。
「どうした」
「いえ……ちょっと、寂しいかなと」
「こよみちゃんか」
板橋は、軽く笑った。
「確かに、可愛かったよな。ミステリアスで魅力的な子だ」
「そんなんじゃ……」
「照れるな、おれも引かれた」
「その顔でですか?」
「馬鹿野郎」
板橋は、国川の背中をどやしつけた。
やや難しい顔になる。
「こよみちゃんだけじゃない。きざむもだ。彼らは……なんだったんだろうな」
失われ、隠された民。痕跡ではない、生きている遺物に、板橋は出会ったのだ。
「本当に……また会いたいよ」
「いい人たちだったよねー」
「半分はね。あなた、なに見てたの」
「国川さんだってそうじゃんか。心を入れ替えて、例の竿金、全部おれたちにくれるって言ってたしさあ」
「もらうわけにはいかないの。分かってるでしょ。目立って新聞記者でも来たら、どうなるか」
「本当言うと、純金の塊もちょっとほしかったんだけどな。いくら微量元素が多いからって、これだけじゃ寂しいじゃん」
刻は、ポケットから白っぽい石を取り出した。小夜美がうっすらと笑う。
「竿金をもって帰ったら、あの人が喜ぶだけよ」
「それは嫌だ」
刻は、まじめな顔で首を左右に振った。
「姉ちゃん、元気ないじゃん。さっきもずっと黙ってて」
「少し、後ろめたくて」
「なにが」
「最後まで、わたしたちのこと黙ってたでしょ」
「へえ、姉ちゃんでも後ろめたいとか思うんだ」
刻は、意外そうに向かいの席に座った姉を見つめた。小夜美がにらむ。
「でも、言うわけにはいかないじゃん。言ったらバラバラにされて解剖されて分解されて解体されるんでしょ?」
「全部同じよ」
「とにかく、体中調べられるんでしょ?」
「生き物の常識をくつがえす代謝構造をしているからね。わたしたちは」
小夜美は、ブラインドを降ろして、窓枠にひじを突いた。
「暑いし……疲れたわ。わたし、寝るから」
「またあ? 頼むから駅に着いたら起きろよ、ボケねえ」
「起きられるわよ。……補給するから」
小夜美は、刻の手から白っぽい鉱石を受け取ると、しゃりしゃりとかみ砕いてから、目を閉じた。
――了――