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リトルスター
序 二一三七年七月
「よし、これで全ての実習訓練を終わる!」
貨客船プロミネンスのブリーフィングルームに教官の声が響くと、生徒たちの歓声がどっと湧き上がった。
「生き延びたあ!」「徹夜で寝るぞお」「こんなぼろ船沈んじまえ!」「飯だ飯だ!」
好き勝手なことをほざきながら、今まで直立不動の姿勢で教官の話を聞いていた若者たちが、三々五々、散って行く。
その時、廊下にばたばたと足音が聞こえたかと思うと、樽を思わせる体型の人物が、鉄砲玉のようにブリーフィングルームに飛び込んで来た。血走った目で室内を見回す。
「レーグ! レーグ・ヤハイルンはいるか?」
血相変えた樽の叫びに、周りの生徒たちが何事かと視線を向ける。中の一つのグループから、手が挙がった。
「おー、ここだよ」
「お、いたか」
手を挙げたのは、浅黒い肌と黒い髪をもった、中近東風の顔立ちをした少年である。樽は、ずかずかとその少年に歩み寄ると、出し抜けに襟首を引っつかんでつるし上げた。
「話がある。ちょっとこい」
「おい、何すんだよ!」
抗議にも耳を貸さず、そのまま少年を他の生徒たちから離れた部屋の隅までもって行くと、樽は顔をぐっと近づけて睨みつけた。
「貴様、また何かよそで不祥事を起こして来たのか?」
「はあ?」
宙に吊り上げられたレーグは、ぽかんと口を開けた。その表情が作り物ではないかと、樽はじろじろにらむ。
「人に迷惑をかけとらんか、と聞いたのだ」
「心当たりがない。――大体、どうやったら実習中にこの船から抜け出せるんだ」
ふるふるとレーグは首を振った。――三秒それをじっとにらみつけてから、樽は手を放した。尻もちをつくでもなしに、すたりとレーグは床に降り立つ。
乱れたスペーススーツの襟を直しながら、レーグは不思議そうに聞いた。
「なんでそんなに血圧上げてんだ? 校長」
「やかましい、これが上げずにいられるか!」
酔っ払ったように顔を赤くして、そう叫ぶと、樽は不意に声を潜めた。
「お前に客だ。それも、すごいVIPのな。何の用か知らんが、レーグ・ヤハイルンに会いたいんだと」
「客だって? ――そりゃどういうことだ?」
レーグが聞き返したのは、心当たりがないからではない。航行中の宇宙船に客が現れるはずがないからだ。
首をかしげるレーグに、樽はじれったそうに早口で言った。
「チャーターか自前か知らんが、わざわざ船で追っかけて来たんだ! 尋常の用じゃないのがわかるだろう?」
「じゃそいつは、オスか? メスか?」
「ものすごい美人だ」
風が起こった。瞬きを一つしてから、樽――プロミネンス商船学校校長のバートンは、レーグが消えているのに気づいた。
「…あのバカ!」
もう遅い。猫にかつぶしを見せたのがいけないのだ。匂わせるだけならともかく。
「お待たせいたしました! レーグ・ヤハイルンです!」
応接室に駆け込むなり、レーグはびしっと敬礼をして見せた。軍に限らず、船乗りの間では慣習的に行われている挨拶である。
パックコーヒーを飲んでいた二十代前半とおぼしい女性が、それに気づいて顔を向けた。「あら…元気のいい少年ね」
一二〇点。それがレーグの下した評価だった。ジャケットの下の、ボディにぴったりフィットした恐ろしくセクシーな気密服といい、当節はやっている機能的ショートカットに真っ向から刃向かうロングの金髪といい、レーグの好みにぴしりとはまりこんでいる。
「君がレーグ君?」
「そーです! 俺がレーグです!」
「分かったからもちょっと声絞ってね。そこ座って」
「はいッ」
レーグは女性の向かいの椅子に腰を下ろした。ふと、昨晩読んだ地球の雑誌のことが思い出された。――このアングル! もしこの人がスカートをはいていたなら…!
「無念だ…」
こぶしを握り締めて、レーグは宇宙の無重力を恨んだ。その物理現象が、大気圏外からスカートを駆逐したのだ。
レーグが一人で泣いている間に、女性は何やら書類らしきものをがさごそ取り出して、応接机に広げた。
「じゃ、さっそく話を始めるわ。――どしたの? 何か悲しいことでもあったの?」
「いーえっ、何でもありません」
涙を拭ったレーグに聞こえない程度の声で、変なコ、と呟いてから、女性は一枚の書類をレーグの前に差し出した。
「この書類に、見覚えがある?」
「…?」
手渡された書類を受け取って、レーグはしげしげと見つめた。――なにやら難しい用語がずらずら並んでいるが、試験、始末書、警告書の類いではなさそうである。
レーグは、首をかしげた。
「さあ…覚えがありませんが」
「ここ、見て」
綺麗な指で女性が指した所を見て、レーグはぎょっとした。――そこにあったのは、紛れもなく彼自身のサインであった。
「これ…俺の」
「確かにあなたの?」
「はあ。…っかしーな、こんなのにサインした覚えなんかねーぞ…?」
台詞の終わりのほうの独り言を、女性は耳ざとく捕らえたらしい。「あなたが、この紙に書いたの?」と念を押してくる。
「いえ、この紙には書いてません」
「じゃ、白紙には?」
そんなことは、と言おうとして、レーグははっと思い出した。先月、ドワイトに寄せ書きを頼まれて、クサい言葉とこんな感じのサイン書いた覚えがある。まだ卒業には早かったから、気の早い奴だと笑ってやったが、奴はそのすぐ後自主退学して行ってしまった。――するとあれが?
「…あります」
「やっぱりね」
レーグが肯定すると、女性は落胆したようにうなずいた。その様子がなんだか不吉なものに思えて、レーグは恐る恐る訊いてみた。「どういうことなんですか?」
「あなた、だまされたのよ」
「へ?」
「どういう状況でサインしたの?」
「友達が、サイン帳を書いてくれって言うもんで…」
「その友達、ドワイト・チャールストンって奴でしょう」
「…そん通りです」
「サイン帳ってのはダミーよ」
「そりゃ…つまりどういうことなんですか?」「こーゆーことよ!」
もって回った問答にたまりかねてレーグが身を乗り出したとき、女性は一束の書類をつかみ出した。鮮やかな手つきで魔術師よろしくテーブルのうえにさーっと広げる。
「あなたは、一〇〇万ポンド六口、計六〇〇万ポンドの借金の債務者になったって事よ!」
「ろっぴゃく…」
「万ポンド。あなたの国の通貨に換算すると約一千万ドルってとこね。――大丈夫?」
大丈夫ではない。呆けている。
参考までに示すが、レーグが町で普通の昼飯を食ったときに支払うのが、大体三ドルである。この数字は一九八〇年代・二〇六〇年代の物価に等しいが、それは何回か行われたデノミのせいである。
「まー、無理もないけど…」
停止してしまったレーグの目の前で、女性は手をひらひらと振った。反応がない。思い切って、殴ってみた。
どかん!
「いてえ…」
「あら…ちょっと加減が」
にこやかに微笑して女性は巧妙にはぐらかした。それはともかく、と表情を引き締める。「よーするにあなたは、莫大な借金を抱え込んだってわけ。――心当たりがないなんて言っても無駄よ。この書類、法律的には完全に正しいんだから」
「詐欺だ!」
ぶんなぐられて我に返ったレーグは、机のはじをつかんで身を乗り出した。
「絶対あの野郎が犯人だ! 奴は学校やめてトンズラこいちまったから、間違いない!」 語気も荒くレーグが叫ぶと、意外にも女性はあっさりとうなずいた。
「そりゃよく分かってるわ」
「なら、俺には関係ないだろ?」
「だから言ったでしょ? 詐欺でも何でも、法律的には、これは完全にあなたの借金なの。あなたの国――アメリカの法律でも、私の国の法律でもね。だから、私としちゃ、あなたから取り立てるしかないわけ」
「取り立てるって…大体、あんた何もんだ?」
レーグに人差し指を突き付けられて、女性は少しのけ反った。――指をつまんで横にのけると、こほん、と咳をする。
「言い遅れたけど、私は、カモニカ・ルグリューン。…ルグリューンファイナンスの所長よ」
「る…ルグリューンん――?」
レーグが絶句したのも無理はない。女性が口にしたのは、その規模地球圏で五指に入るという巨大企業の名であった。
人差し指を向けたままるるるると震えてい
るレーグに、カモニカは名刺を差し出した。
「はい、身分証明書。そーゆーわけで、所長自ら借金の取り立てに来たんだけど――」
立ったままのレーグを、カモニカは指でつん、と押した。放心状態のままのレーグがどさっとソファに腰を落とす。
「…こりゃ回収不能ね…」
はあっ、とカモニカは重いため息をついた。「聞くだけ無駄だと思うけど、払える?」
「いっせんまん…いっせんまん…」
「あかん…」
エンドレスで一千万一千万と呟き始めたレーグを見て、カモニカは頭を抱えた。
「どーしよー…」
「や、間に合いましたか」
横合いから声をかけられて、カモニカはのろくさと顔を上げた。この船に移乗したとき出迎えに出て来たサンタ腹のおっさんが、荒い息をつきながら立っている。
「あら…その汗、どうしたんです?」
「どうもしません、こいつと会った場所から走って来ただけです。なんせ三〇〇メートルはありますからな」
ブリーフィングルームは船尾にあり、応接室は船首近くにある。レーグの移動速度は推して知るべし、だ。
息が整うと、バートンはレーグの隣に腰掛けた。――それからやっと、レーグのおかしな様子に気づいて、目の前で手を振ったりしてみる。
「どうした、レーグ」
「いっせんまん…」
「無駄です。何を言っても」
バートンは、レーグからカモニカに視線を移した。
「どうしたんです? こいつは」
カモニカは、それまでのいきさつをかいつまんで話した。事情を知って、さすがに太っ腹のバートンも目を丸くする。
「一千万ドルですか…」
「ええ。彼には係累はいませんか?」
出来れば金持ちの、と付け足したかったが、それは控えた。
バートンは、弱々しく首を振った。
「家族がいることはいますが、とても肩代わりはできんでしょうな。太陽挟んで反対側のジェミニ・ジャンクションで、ごく小さな修理屋をやってるそうですから…」
「そうですか…」
期せずして、二人のため息が重なった。
カモニカは、応接室の天井を見上げた。半球型の積層クリスタル窓の向こうに、いつも事務所から見えるそれよりも三倍ほど大きい青い球が見える。――この船プロミネンスが、訓練航行の為に、通常使われる月軌道より二五万キロも低い地上一二万キロの円周軌道を使っているからだ。
「…こういうのはどうでしょう」
バートンの声に、カモニカは視線を戻した。
「こいつを、お宅で使ってやって下さらんか」「…はあ?」
バートンは、レーグの後頭部をぶっ叩いた。放心していたレーグは抗いもせず前のめりになり、強化ガラス製の応接机にごんと頭をぶつけた。――三秒ほどで、はっと起き上がる。
「こっ、ここは一体…」
「起きたか」
レーグの扱いを心得た者の手腕を見せたバートンは、カモニカに向き直った。
「今日でこいつも卒業です。就職のあては一応ありますが、そっちは私らがなんとかします。どうか、お宅でこいつを使ってやって下さい。給料はなしで結構です」
「はあ…でも…」
「遠慮なさらんで下さい。何かと問題が多い奴ですが、宇宙船の扱いだけは器用な奴です。一千万に足りんとしても、死ぬまでコキ使えば一割ぐらいは取れるでしょう。――ほら、お前も頼まんか」
おい放せともがくレーグの頭に手を当てて、バートンは自分ともどもぐいっと下げた。――何やら、就職の面接のようである。
「どうか…」
「仕方ありませんね」
カモニカは、ふうっと息をついた。それを聞いて、バートンが顔を上げる。
「使って下さるか」
「それしか元を取る方法はなさそうですからね」
テーブルの上の書類をさーっとまとめて
しまい込むと、カモニカは立ち上がった。
「ほら、レーグ! 行くわよ」
「はあ?」
「はあじゃないでしょ!」
まだよく状況が分かっていないレーグのそばにつかつかと歩み寄ると、カモニカはその耳を引っつまんだ。
「いてててて!」
「今からあんたはあたしのもんよ。一千万ドル積み立てるまで働いてもらうわよ!」
「そんな無茶なわてて! おい離してくれ!」「るさい! それから、その言葉遣いも直しなさい!」
取り立てが出来なくて不機嫌なカモニカは、レーグの耳がちぎれそうになるのもお構いなしにずんずん引っ張って歩いて行く。それを、バートンがハンカチを振って見送った。
「達者でなあ…」
「俺が一体何をしたあ?」
レーグの悲痛な叫びは、空しく星空に吸い込まれて行った。
ACT−1 サテライト・オービット
1.
「てな訳で、目下のとこ俺は、ルグリューンの所長の秘書として働いている訳だ」
『社員一人に所長一人の小企業でしょうが。親企業の名前なんか出したって、こっちゃ恐れ入らないわよ』
ヴィジホンの画面の中で、月面静の海にあるリゾート施設にいる姉のクレアが、レーグをにらんだ。
『しっかし、一年も音沙汰がないと思ったら、まさかそんなところで下僕やってるとはね』
「秘書」
レーグは静かに訂正したが、そんなことに取り合うほどクレアは細かくできあがっていない。額を押さえて、ため息をついている。『給料ないんでしょ? そんなもん、召し使いですらないじゃない。あんた、奴隷よ。それ』
「…言わんでくれ。自覚しちまう…」
『大体、その所長ってどんな人なのよ?』
「うーん、数字的に言うと93・58・92、全体像を表すならば…」
しばらく考えて、レーグは適当な例えを見つけた。
「五カラットのダイヤがびしっと似合う女」
『…いかにもあんたらしい例えね』
ディスプレイの中で、クレアは頭を振った。
『情けないったらありゃしない。母さんになんて言えばいいの?』
「だから、さっき言った通りに…」
『あーはいはい、秘書ね。分かったわよ。商船学校出た奴が何でそんな仕事してんのかという疑問はおいといて、ね』
「頼む。このとーり…」
『分かった。それじゃ、せいぜい体壊さんように頑張りなさい。病気にでもなったらすぐにほっぽり出されるんでしょ?』
「…」
月面からここラグランジュポイント1まではわずか六〇〇〇キロしか離れていないので、光行差による会話のギャップはほとんど無い。画面のクレアが脳天気に手を振ったのは、本人の動作とほぼ同時のはずである。
『達者でな。我が最愛なる弟よ』
双方向通信のヴィジホン回線が切れて、待機中のREADYサインが光化学ディスプレイに現れる。――レーグは、ナビゲーターシートの背にどさっと身を預けた。
「そーか、もう一年か…」
誘拐同然に連れて来られたあの日のことが、脳裏に浮かび上がる。思えばあれから、色々な事があった。
「ふっ…」
「気障ったらしく鼻鳴らしてんじゃないわよ。似合う柄でもないくせに」
後ろから声をかけられて、レーグは振り向いた。金髪碧眼長身の女性がコックピットに入ってくる。
「所長!」
あわててレーグは背筋を伸ばした。ルグリューンファイナンスの所長であり、この船リトルスターの船長であり、レーグの主であるカモニカ・ルグリューンは、その隣のパイロットシートに腰を下ろした。
「出発するわよ」
「あ、はい」
返事をしながら、カモニカの横顔をちらっと覗きみる。
カモニカの格好は、例によって、派手な蛍光ピンクのエアタイトスーツに、ジャケット一枚羽織るだけの格好である。彼女に言わせるとこれは、美しい、機能的、安全、洗濯の手間が要らない、安い、といいことずくめのファッションだそうだ。
アクセサリー代わりのサンバイザーをコンソールに置いて、カモニカは通信機をオンにした。
「ファーストコーン航管へ、こちらラグランジュ1籍ルグリューンファイナンス所属、高速機動艇・UK−12189Sリトルスター。第五埠頭一二番バースより出港します」
『ファーストコーン航行管理局、了解。貴船の航行の平穏を祈る』
航管が短く答えた。もとより手続きはコンピューターを介して済んでおり、このやり取りは儀礼的なものである。
カモニカは、船の機動を制御する3Dコントローラーに手を当てて回した。電磁石を利用したドッキングフックは航管側の操作ですでに外されていたらしく、リトルスターは滑るように停泊域から離れて行く。この瞬間から、コーンと一緒に回転していたときの遠心力がなくなって、リトルスターの中は無重量状態になる。
「なんだか混んでるわね」
低速用の非核エンジンを噴かしてリトルスターを進めながら、カモニカは油断なく後方・側方監視カメラの映像に目を走らせた。
月−地球間の中継地であるファーストコーン港内には、さまざまな船舶が停泊している。定期便の軌道間輸送船やミニシャトル、全身を探査機器で固めた深宇宙調査船などから、竜骨に二〇機あまりの子機をくくりつけた全長八〇〇メートルを越す巨大な輸送母船や、土星や木星で燃料気体を採取するドレッジャーまで、国も社も違う大小雑多な船が、港からのドッキングアンカーに身をゆだねている。
点滅する舷灯の間を縫って船体の細かいリトルスターを転がしながら、カモニカはつぶやいた。
「危ないったらありゃしない」
前方から、赤色灯を点滅させながら警察のエイのような形のパトシップが向かって来た。カモニカは、軽く手首をひねってコントローラーを回す。昔のリニアトレインのような流線形の外形をしたリトルスターは、身軽にロールを打ってパトシップを飛び越した。
――リトルスターは、コロニーに船尾を見せて遠ざかりつつある。巨大なコロニーは近くからでは一部しか見えないが、離れて行くに
連れて、コロニーの全容が見えてくるようになった。真空であるためコントラストがはっきり別れたコロニーの陰の部分には、無数のイルミネーションが星のようにきらめき、さらにその周りをさまざまな船が飛びかっていて、まるで一塊の星雲のように見える。
ラグランジュポイント1、ホーキングスペースシティ。月軌道までの地球圏に五つあるオニール型のコロニーの中で、最も地球に近い都市。またの名を「ファースト・コーン」。
直径八キロ、長軸四〇キロの宇宙島は、人類が過去建造した構造物の中でも最大の物である。二本並んだその長大な筒が、集光用のミラーを開いて二分半で一回転している様は、まさに「とうもろこし」を思わせ、最近は公式文書にも載るようになったそのあだ名の由来が、よく実感できた。
「ほら、よそ見してないで」
カモニカに注意されて、レーグは自分の受け持ちの航法ディスプレイに目を戻した。白道面、つまり月軌道面を表した、地球−月間の平面図をチェックする。
「対港速度二〇〇メートル毎秒、対港直距一二〇キロ、よーし、出航完了っと」
「あら…レーグ、あれなに?」
「あれ? どれですか?」
「ほら、地球のちょっと右のほう――ちょうど、フォースコーンとの間ぐらい」
カモニカの指さした方向を、レーグは目を細めて見つめた。一等星の明るさで見えるLP4のフォースコーン・雫石スペースシティと、正面の地球との間、黄道面より五度ほど下に、ぼんやりと光る細長い天体があった。
「あ、ほんとだ。何か見えますね」
「なんだろなー…亜美! 分かる?」
《見かけの経緯、R四二度三三分・S六度五分の光暈状物体のことですね?》
カモニカに聞かれて、AI《亜美》が、柔らかな女性の声で答えた。
《わたくしのデータバンクにはデータがありません。国際天文学連合に問い合わせます》
「え? ちょっと待って!」
何を思ったのかカモニカがストップをかけたが、もう遅い。亜美はすでにデータアクセスを始めている。
真空・低温の宇宙空間は、ホコリを大敵とする電子頭脳にとって最適な環境である。だから、宇宙――特に月面には、いろいろな機関が記憶巣を設置している。その中の一つ、コペルニクスクレーターのIAUデータバンクに亜美は通信を飛ばした。五秒とかからず必要なデータを拾ってくる。
《分かりました》
「早いわね」
《公共のデータバンクですから、プロテクトブレーキングをする必要がありませんでしたので。――何かご不満でも?》
「IAUのデータって、もちろん有料なんでしょ。…まあ今更言っても仕方ないけど…」 常に、先立つものを最優先とするカモニカである。
亜美は、サブスクリーンにCCDの望遠映像を映しながら、説明した。
《IAUのデータによると、あれは、ハレー彗星です》
「ハレー彗星ですって?」
「ああ、そう言えば…」
カモニカは意表をつかれた顔をしたが、レーグには心当たりがあった。ぽんと手を打つ。
「BBCでちょっと前にそんなニュースをやってましたよ。なんでも、火星軌道の酸素備蓄タンクがそいつにはねられたとかで…」
「はねられた? どーゆーこと? それ」
首をひねったカモニカに、レーグは肩をすくめて見せた。
「どーもこーもありませんや。どかんと一発、ピンポイント・クラッシュです。タンクは粉々になりましたが、ハレーは平気な顔で飛んでっちまったそうですよ」
「だって、そんなの前もって予想できそうなもんじゃない?」
ハレーのような彗星や、地球近辺まで周回してくるアポロ、イカルス、アドニスと言った楕円軌道を描く小惑星は、IAUや広域航路管理局、黄道情報局などの組織によって随時監視され、あらかじめ軌道が分かっているはずである。宇宙空間に大型の構造物を設置するときは、前もってそれらの軌道を調べ、衝突が起こり得ない安全空域に造るのがセオリーである。
「それがどうも、やっこさん海王星軌道の辺りで微惑星にでもぶつかられたらしく、ほんのちょっと予測より軌道がズレてたんですよ。それが判明したときには、例の酸素タンクはすでに完成していたんです。タンクは差し渡し二〇キロぐらいの、機動力のないバカでかい奴ですからね。避けようにも動けなかったんだそうです」
「ずいぶん間抜けな話ね…」
「それで、衝突があった後で泡食って軌道計算をやり直したんですが、どうもこのままじゃ太陽に突っ込んじまいそうな気配があるそうです。まあ、ハレー彗星なんて資源的価値はありませんから、どこもこのままほっとくようですけどね」
「ふうん…」
さして興味も無さそうな返事をしてから、カモニカは気を取り直してコンソールをパンと叩いた。
「さて! 亜美、今度の目的地はどこだったっけ?」
《地球静止衛星軌道上のユーテルサット48――ESAの衛星研究所です。二〇五三年までは通信衛星でしたが、通信施設が古くなったので、居住区のブロックを増設されて研究所になりました。今回の顧客シャーロット・キャナルスタイン嬢は、そこの研究員です》
「そういや、今度はなんの仕事ですか?」
レーグに尋ねられて、カモニカは顔をしかめた。
「一年前のあんたと同じよ。支払い日過ぎても口座が空だから、取り立てに来たの。――けどこういう場合って、十中八九返済不能なのよね」
「ははあ」
気の毒に、とレーグは頷いた。ひとごととは思えなかったのだ。
「まあ今回は、あんたの時みたいにサギじゃないのははっきりしてるし、金額だって一万ポンドちょっとだから大したことないけど…」 そこで言葉を切って、カモニカはレーグの顔に視線を移した。じーっと見つめる。やがて、悲しげにため息をついた。
「…はあっ」
「…所長、今、一年前のことを思い出してたでしょう。悪かったですね、俺が借金のカタで」
「六〇〇万ポンド…」
未だにカモニカは想いを捨て切れずにいるのだ。
カモニカの職業は、そしてルグリューンファイナンスの業務は、金融業、平たく言えば金貸しである。それに加えて、彼女は不良貸し付けの後始末、つまり強制取り立てまで、自分でやっている。レーグが来るまでは、この会社は社員一人の文字どおりのワンマン企業であった。レーグは以前勘違いしたが、カモニカの会社は、巨大企業ルグリューン・エンタープライズの傘下の一金融企業でしかない。 しかし、小企業と侮ってはいけない。ルグリューンファイナンスは、年間貸し付け額四二億五〇〇〇万ポンド、日本円に換算して実に八五〇〇億円もの取引を行っている、業界でもナンバー五に入る優良企業なのである。
その業務の種類は、外惑星資源開発企業やホールセールバンキング宇宙船メーカーなどへの卸売銀行業務から、市民レベルでの個人を相手に少額を取引する小売銀行業務まで、恐ろしく多岐にわたる。だが、通常の事務方式では、それだけの広汎かつ複雑な事務処理は、一万人の事務員を雇ってもさばきようがない。その不可能のはずの事を可能にしたのは、亜美であった。
オールラウンドマシンインテリジェンス、AMI。全用途用機械化知能である。全太陽系の通信ネットを網羅したこのコンピューターのせいで、カモニカは女一人で業界を席巻するという偉業を成し得たのだが、彼女が一金融企業の所長であったなら、そんな最終兵器がおいそれと手に入る訳がない。
彼女は、ルグリューンエンタープライズ社長、ジャスティ・ルグリューンの娘であった。ワガママ娘は、甘い親父におねだりして、高価なおもちゃを買ってもらったのである。
ジャスティ社長は配下のルグリューン・フォトニクスに命じて、亜美の開発を行わせた。なんでも、その設計の特殊性のあまり、それ一台を作るためだけにわざわざ専用の工場が必要になったそうで、全部で数億ポンドの金を食ったそうである。――もっとも、この数年でカモニカが亜美を駆使して太陽系全域からひっぺがした富は、亜美の開発費をゴマぐらいに見下すことができるほどであったが。 しかし、さしもの彼女にも、弱点はあった。
「手」がないのである。
トワイニングの淹れ方は知っていても、亜美は実際に淹れることはできない。換言すれば、電子的な端末のないところでは、役に立たないのである。
しかし、カモニカは人を雇わなかった。理由は二つ。他人に自分の方針を乱されるのが嫌だったのと、人件費を払うのに耐えられなかったからである。
そして、運命の時が来た。レーグが彼女の前に現れたのだ。六〇〇万ポンドは惜しかったが、その代わりに彼女は、タダでいいなりに働くレーグを得たのだ。
現在、二一三八年七月。レーグがやって来て一年。カモニカは、不機嫌である。
「どうせ役立たずなら、もっと年上で、顔が良くって、背が高くって、声が渋くって、私より年収のある人がよかったわ」
「…水星から冥王星まで、鐘と太鼓で探したってそんな奴いやしませんよ」
「ほーお。ずいぶん強気な発言ね?」
カモニカは、横目でじろっとレーグをにらんだ。レーグは何となくシートにかけたまま後じさった。
「所長より年収のある男なんて太陽系にゃいないって言う意味です」
――断っておくが、レーグが顔が悪くって背が低くって声がダミ声のブ男であるわけでは、決してない。アラブ系の容姿は、偏差値を取ったら六五は堅いぐらいである。単に、「年下はイヤ!」と言い張るカモニカが、ワガママすぎるだけだ。
「年収うんぬんは冗談としても、あんたがそれだけ無能だと、文句の一つも言いたくなるわよ」
「無能って、そりゃ経済学に関してのことでしょうが…」
レーグが出たのは商船学校である。天測で対惑星座標を割り出すとか、エンストした融合炉を叩き起こすとか言ったことならともかく、譲渡性預金がどうの割賦販売の有利点がこうのと並べられても、彼にとってはインカ語も同然なのだ。
「大体、今まで何度危ない目に会いました? 俺がいなかったらどーなってたか…」
「何言ってんのよ、あんたが役に立った?」
去年の秋に冥王星の衛星カロン近辺で海賊船に追っかけられてレーグの策でようやっと助かったことや、暮れに太陽に引きずり込まれかけてレーグが間一髪船を立て直したことことなど、カモニカはてんから覚えていないらしい。レーグはしくしく泣きながら言った。
「俺だって、まともに就職してりゃ、今頃は二等航行士ぐらいにはなれてたかもしれないのに…」
「泣くんじゃないわよ! 男でしょ?」
カモニカは、哀れなレーグの頭を引っぱたいた。
亜美のモニターカメラを見上げる。
「亜美、ファーストコーンからの距離は?」
《直距一二〇五キロです。加速度三・〇メートル毎秒毎秒》
「よっし、吹かすわよ! 融合炉一〇八パーセント臨界! コントロールお願いね」
「寝るんですか?」
レーグに聞かれて、シートから立ち上がりながらカモニカはうなずいた。
「地球まで三時間ちょっとかかるんだもん。
寝だめしとくわ。今何時?」
《太陽系標準時〇七〇九です。静止軌道到着は一〇三三の予定》
「じゃ、一〇時になったら起こしてね」
「…俺は不寝番ですか?」
「ったりまえでしょー? 航行中の宇宙船は、最低限要員として常に全乗組員の半数を即応態勢におかなければならないって規則、忘れた?」
「星航法の三五条でしょう、分かりましたよ」
レーグに反抗の術はない。
じゃ頑張ってねー、と無責任に手を振ると、カモニカはコックピットから居住区へ降りて行ってしまった。ついて行きたいが、行っても空しいだけである。居住区にあるベッドは一つだけ。レーグのベッドは、いつもリクライニングしたナビシートなのだ。
「ああ、俺って不幸…」
《主機関起動一〇秒前。補助機関、停止しました》
亜美の声は柔らかいが、柔らかいばかりで慰めてもくれない。その能力がない訳ではなく、所有者であるカモニカに、レーグには情け無用と言い聞かされているからだ。
《核融合炉臨界、現在ライト一〇七・四パーセント、レフト一〇七・八パーセント。主機関噴射開始します。現在時刻はSSMT〇七一一、到着予定時刻はSSMT一〇三三です》
亜美が時刻を復唱し、同時に船体に鈍いショックが走った。
リトルスターは、全長五五メートル、質量二三三〇トンの小型船である。大気圏突入も考えて砲弾型に成型されたその船体の後部には、最大推力一三九八〇トンの核融合エンジンが、左右二つ装備されている。
その、船体に比して非常識に強力な二基のエンジンに、臨界量よりほんの少し多いだけの核融合燃料――重水素とヘリウム3の混合ガス――が送り込まれた。二つのエンジンが、それぞれ全力の一割ほどの力を発揮し始める。
核融合反応を起こした灼熱のプラズマ流が、船体よりも巨大な純白の尾となって噴き出す。ゆっくりと、リトルスターは加速を開始した。
2.
地球圏のみならず、太陽系内では、標準時としてSSMT、太陽系標準時を使っている。が、これはそのままGMT、すなわちグリニッジ標準時に準拠しているので、生粋の英国人を自称するカモニカは、GMTのほうを好んで使っている。
だが、GMTだろーがSSMTだろーが、彼女がそれを大ッ嫌いになるときがあった。寝起き時である。
『しょっちょー、着きましたよ』
SSMT一〇〇〇、訳すと午前一〇時だが、宇宙では昼夜の区別がないから、頼れるのは枕元の時計だけだ。そして、その時計と天井のスピーカーの両方が、睡眠時間の終わったことを告げていた。
「…朝なんか大っ嫌いよ…」
『所長、起きてますかあ? 起こしに行っちゃいますよー』
「起きてるわよ! 入って来たらス巻きにして大気圏の中に叩っこむからね!」
スピーカーの向こうで、レーグがちっと舌を鳴らしたのが分かった。返事がなかったら、実力行使とでも称して、忍び込んでくるつもりだったのだろう。
カモニカはベッドの上に起き上がった。ふわりと体が浮かぶ。加速が終わり、船が慣性航行に入っている証拠だ。この状態がカモニカは一番好きである。
伸びをしながら宙を渡って、ワードローブに手を突っ込み、替えのエアタイトスーツと吸湿性の高いインナーウェアを取り出した。カモニカの服装は、靴を除けば、それが全てである。部品わずか二つしかない。
サンバイザーとジャケットを引っつかんで部屋から出ようとして、入り口で立ち止まる。――ネックバンドをはめていこうかどうか迷ったのだが、結局、無しにした。
部屋を出、食堂を横切ってハシゴ付きの連絡通路を抜ければ、そこはもうコックピットである。この船の居住区は、船全体から見るとほんのわずかな容積しか占めていない。船体の大部分は、推進系と発電用融合炉と超光速機関と、ある装置とで占められている。
コックピットにカモニカが入ると、正面のスクリーンの中央に、旧式な研究衛星が静止していた。地球は、左手にバスケットボールほどの大きさで見える。
《東経一〇四度赤道上、ほぼシンガポールの上空三六〇〇〇キロです。前方一キロ、ユーテルサット48です》
ユーテルサット48――EUTELSATの綴りから分かるように、欧州宇宙機関、ESAの通信衛星である。ユーテルサット・シリーズの静止衛星は二〇〇〇年代前半から
定期的に打ち上げられているが、四八号は中継機器の維持管理がしっかりしていなかったため、電波漏出やら多周波攪乱やらを起こして、一時期、北太平洋全域の電波通信を無茶苦茶にひっかきまわしたという、いわくつきの中継衛星である。
結局、中継機器だけを取り外され、余った部分を足掛かりに有人ブロックが建設されて、四八号は無重力研究所に生まれ変わった。
だが、それがかえって四八号の寿命を延ばすことになった。同世代の衛星が次々と引退して行く中、四八号は他に適当な小型研究所がないという理由で使われ続け、ESAが連邦太陽系開発機構に吸収された後も、最古の実働衛星として生き残っているという。
「にしても、とてつもないボロね…」
その、円筒に翼とソーラーパネルをくっつけただけのような、ものすごく旧式な形の衛星に、微噴射を行ってリトルスターを接近させながら、カモニカはつぶやいた。
「スカイラブの幽霊みたい」
《建造方法が同じなんです。研究室の部分はアリアン12型の三段目ロケットを利用したものですから》
亜美が解説を入れた。
「移乗の方法は? どっから入るの?」
「見ての通りドッキングチューブなんて気のきいたもんはありませんから、スーツを着て泳いでいくんです」
レーグが、手の平を水平に滑らせた。
「こう、すーっとね」
「あきれた…」
やがて、リトルスターはユーテルサット48から五メートルの距離で静止した。慣性が保存される宇宙空間で二体を互いに静止させるには、かなりのテクニックがいる。それをカモニカは、造作もなくやってのけた。
「さ、行くわよ」
カモニカは立ち上がった。彼女のエアタイトスーツはそのまま宇宙服として使えるし、レーグの服装はスーパーファイバー製の黒で縁取りの入った白い上下だから、これも同じくである。酸素の軽ボンベを装着し、襟のファスナーを開けてちょっと見ただけでは透明なフードのように見えるメットを引っ張り出して被れば――内圧で球形に膨張する――それでOKである。ただし、水の循環機構と宇宙線対策がないので、長時間の行動はできない。あとの荷物は、推進銃と書類ケースだけだ。
「さて…」
リトルスターのエアロックは、船体の脇腹にある。レーグとカモニカは、そこを通って大宇宙に出た。
周りに広がる、まさに無限の暗闇。けっして瞬かぬ星々。そして、たった五ミリの厚さの布を隔てて真空と隣り合う恐怖。
「うわ…私、苦手なのよ。遊泳は…」
底知れぬ穴に落ちて行くような、浮遊感。カモニカは初心者ではないが、この落下感覚には、どうも慣れない。
下手に手をばたばた動かしたりすると、変なモーメントがついてあらぬ方向へ飛んで行ってしまうので、そうっと宇宙銃を構えた。
シュッ…
過酸化水素が燃焼され、生成した水が噴射する圧力で、カモニカの体が反対方向に進む。ほんの数秒で、ユーテルサットの外板に背中がついた。
「よし…」
突起には不自由しない。突き出たアンテナブームをつかんで、カモニカはエアロックにたどり着いた。
「遅かったですねー」
顔を上げると、レーグがにやにや笑っていた。彼は遊泳が得意なのだ。宇宙空間を怖がらないからだろう。
「…踏むの、ツケね」
下手に殴ると、それこそどこに飛んで行くか分からないのだ。
あらかじめ連絡してあったので、カモニカたちがつくとすぐに中からの操作でエアロックのドアが開かれた。――ちらっとリトルスターを見たとき、その向こうにずいぶん近い距離を飛んでいる船がいた。
「…?」
不審に思いつつも、亜美に訊くほどではないと思って、カモニカはエアロックの中に飛び降りた。
ACT−2 ホライズン・チェイス
1.
エアロックに入ってメットを外すと、カモニカはようやく人心地がついたような気がした。早速、レーグを踏む。
「何すんです!」
「主人を笑ったでしょう!」
カモニカたちがぎゃあぎゃあやっていると、エアロックの内側のインナー・ハッチが開いた。メガネをかけた、初々しい感じのおかっぱの髪の女性の顔が覗く。
「あの…」
「はいっ、なんでしょう?」
今の今までカモニカと争っていたレーグが、その目の前にしゅたっと飛び降りた。
「わたくしレーグ・ヤハイルンと申します。あなたのお名前は?」
「お名前はさっき教えたでしょーが」
カモニカはレーグを踏みつけると、その女性ににっこりと笑いかけた。
「初めまして。ルグリューンファイナンス所長の、カモニカ・ルグリューンです」
「連邦太陽系開発機構、理論物理部のシャーロット・キャナルスタインです。…あの、そのひと、流血しているようですけど…」
「え? これですか?」
シャーロットに心配げに言われて、カモニカは足元に視線を落とした。靴の下で、はたかれたゴキブリのようにレーグがもがいている。カモニカは、足をどけた。
「シャーリーと呼ばせていただけますね?」
起き上がるなりシャーロットの手を握ったレーグを、カモニカは再び踏み付けた。
「この通り、踏んでも壊れませんから」
「…丈夫な方なんですね」
引きつった顔でシャーロットがうなずいた。カモニカは、エアロックから室内に躍り込んだ。内部は完全な無重力である。
「じゃ、さっそく用件に入らせてもらいましょうか」
職業用の声で言いながらケースを開いて、カモニカは数枚の書類を器用に空中に並べた。「四月にお貸しした一万とんで五〇〇ポンドが、元利ともにまだ口座に振り込まれていませんが、今お支払い願えますか?」
「その…」
カモニカの向かいに浮かんでいたシャーロットが、言いにくそうに顔を伏せた。
「この五月に特許料が入るはずだったんですけど…申請が遅れちゃって…」
「分かりました。払えないということですね」
シャーロットの言葉を遮って、カモニカは強い口調で言った。
「では、あなたの名義の物品で、売ってお金になりそうなものはありますか?」
「いえここには…服ぐらいしか…」
それは本当だとカモニカは見抜いた。ここに入ったときから観察しているが、差し押さえをかけられそうな私物はない。
「それでは、破産ということになりますが…」
「そんな殺生な!」
カモニカは、みたびレーグを踏んだ。彼が叫んだのである。
「あんたどっちの味方よ!」
「だってかわいそうじゃありませんか! 俺とたいして変わらないぐらいの女の子に…」
「…あんた、その人もう二十過ぎよ」
「へえ?」
カモニカは、でしょ? とシャーロットに目を向けた。シャーロットは恥ずかしそうにうなずく。
「昔から童顔で…」
「二十過ぎたらもう大人でしょ。責任はどこにももって行きようがないのよ」
「…年上…その顔で…」
例によって、レーグは谷底にハマったようである。カモニカが、追い打ちをかけるようにシャーロットの経歴データを読み上げる。「それだけじゃないわよ。二一三〇年に一四歳でケンブリッジ大学をスキップ卒業、二一三二年物理博士号取得、二一三三年工学・数学PhD取得、翌年には、…なんとノーベル物理学賞候補に上ってるわね。あんたとは比べもんにならないわ」
「それは所長も」
「るさい。えーとそれから、二一三四年にFSSDOに引き抜かれて名誉研究員となり、自由研究権を与えられて超々光速の研究を続け、ホーキング賞、ナスティオン賞他二つの物理学賞を取り、今にいたる…」
そこまで読んで、カモニカは眉をひそめながらシャーロットに目を移した。
「私、ESAの給料に関しちゃ素人なんですけど、あなたってそーとー給料のいいポストにいるんじゃない?」
シャーロットは複雑な顔をした。
「ええ。…というか、その相当な給料をもってしても払えないほどの費用をかけて研究をしているから、お金が無いんです」
「経費で落ちないの?」
「落とし切れないんです。去年なんか、重力の極限状態を調べるために、太陽中心部を探査してくるドローンをわざわざ GE――ギャラクシー・エレクトリック社に特注したりしましたから」
「…凄いことやってるのね」
いつのまにか敬語の取れてしまったカモニカである。シャーロットは、少し照れたような顔をした。
「けど、ずいぶん詳しく調べたんですね。あたしのこと」
「取引前調査は金融業の常識よ。バシェット教授の名前まで割れてるんだけど?」
カモニカの台詞に、シャーリーが口を押さえた。
「お爺ちゃんのことまで?」
「そうよ。――ん? バシェット…?」
不意に、カモニカは何かを考え込み始めた。その横で、レーグがむくりと起き上がる。
「バシェットって…バシェット・キャナルスタイン教授ですか? 『小惑星の神様』の」「ご存じなんですか?」
シャーロットが顔を輝かせた。もちろんです、とレーグはうなずく。
「学校の天文の授業でさんざか叩き込まれましたよ。アステロイドの小惑星の軌道を全部調べあげた人だって」
「ちょっと待って」
えらく真剣な顔で、カモニカが話をさえぎった。どうしたんです、とレーグが逆さまにのぞき込む。
「今思い出したわ。…シャーロット」
「シャーリーでいいです」
「シャーリーあなた、『教授の財宝』について知らない?」
「はあ?」
突然出て来た妙な単語に、シャーロットとレーグはぽかんと口を開けた。カモニカが、意味ありげに笑う。
「あたしたちの業界じゃ有名な話よ。お堅いことじゃ有名なイングランド銀行に、巨額の資金の融通を頼みにいったある大物が、『バシェット教授にならともかく、あんたのところにそんな金は貸せない』って断られたって」「いくらぐらいですか?」
「約一〇〇〇億ポンド」
「いっせん…」
レーグは以前の記憶が蘇ったらしく、いっせんまん…とつぶやき出した。シャーリーが、どういうことです? と訊く。
「セラミックより堅いイングランドの頭取が漏らした言葉だから、どっかの外交官なんかよりよっぽど信頼できるわ。調べてみたら、確かに教授はイングランド銀行と二、三回接触していたの」
「何の目的で?」
「さあ、それが分かれば話は簡単なんだけどね」
シャーリーに詰め寄られて、カモニカは肩をすくめて見せた。
「分かっているのは、イングランド銀行が教授に頼まれて何かの目利きをしたってことだけ。あそこはガードが固いから情報が漏れてこなくって、それ以上何もわかんないんだけど――」
そこでいったん言葉を切ってから、カモニカはきっぱりと言った。
「これだけは確かよ。イングランドは教授がもっていた《何か》を、合衆国の財政よりも信用したってこと」
「つまり…あなたは、私がその《何か》をバシェットお爺ちゃんから受け継いでいないかと?」
「そう訊くつもりだったんだけど…」
シャーリーの目を見つめて、ないみたいね、とカモニカは苦笑した。
「あーあ、また回収不能かあ…」
浮いていた書類をかき集めて、カモニカはケースに収めた。――その時、壁際のコントロールシステムがチチッと警告音を鳴らした。シャーリーが操作盤に飛びつく。ディスプレイに表示されていくデータを読んだシャーリーは、顔色を変えた。
「接近警報? ――エアロックに損傷が?」
次の瞬間、室内に突風が巻き起こった。
2.
何が怖いといって、宇宙船に乗っていてエアが抜けることほど怖いことはない。突風はエア抜けに付随する最も危険な現象だが、今回は数秒で収まった。
カモニカは、エアロックに目を向けた。ハードタイプの宇宙服が、三体立っている。
強力なトーチで外板を焼き切って中に入ってきてから接着剤で穴を塞いだのだ。そんな乱暴なまねをしたのは、中からの許可がなければ、エアロックは開かないからだろう。
「誰です? あなたたちは!」
シャーリーが叫んだが返事は沈黙であった。
宇宙服たちの偏光メットが、有害な宇宙線を感知しなくなってすうっと無色に戻った。その中に、無表情な男の顔が臨めた。――三体は、片手をカモニカたちに突き付けた。
銃をもっていた。それも、宇宙銃などではなく、連邦防衛軍制式のレーザーガン、ウィンチェスターM−98レイシャワーである。
「全員、そこを動くな」
メット越しの太い声に、三人は凍りついた。
「動けば、床を撃つ。――我々は大丈夫だが、お前たちは真空死するだろう」
カモニカたちが両手を挙げたのを見て、リーダーらしい宇宙服が歩み寄ってきた。
「物分かりがいいな」
――レーグは、カモニカがいつも小さな拳銃を隠し持っていることを知っていた。
「所長…」
そっとカモニカのほうを盗み見て、彼は、げ、とつぶやいた。彼女がいつも護身用に身につけているはずの二二口径が、見当たらない。置いてきたのか、と失望する。
宇宙服が銃口をゆらした。
「シャーロット・キャナルスタインはどっちだ?」
黙ってシャーリーが手を挙げた。
「じゃ後の二人はなんだ?」
「借金取りよ。そっちの情けないのは召使い」「誰が召使いですか!」
「黙れ」
出力を絞った照準用のレーザードットを鼻に当てられて、レーグは押し黙った。
「まあいい。一人しかいないと思ったんだが、三人でも同じだ。これから質問することに答えろ。いいな」
特に暴力的でもない、乾いた声である。経済と軍事、道は違えど、自分と同じプロだとカモニカは直感した。
「キャナルスタイン、お前の祖父は誰だ?」
カモニカとレーグは顔を見合わせた。はからずも、先ほどから話題になっている人物である。シャーリーが、少しためらってから返事をした。
「私の祖父…ですか? …スウェン・キャナルスタインです」
レーグが、それを聞いて顔を上げた。が、彼が訊くより早く、宇宙服が言った。
「それは戸籍上のことだ。本当の祖父はバシェット・キャナルスタインだな?」
「…はい」
「彼女、教授の隠し子の子なのよ」
カモニカが、ごく小さな声でレーグに耳打ちした。
「よし。それじゃあお前は、そのバシェットから伝えられた何かを持っているだろう?」「ありません」
シャーロットは即答した。「そんな筈は――」と怒鳴りかけて、不意に宇宙服は口を閉ざした。口調を平静に戻して、聞き直す。
「お前の家には、《教授の宝物》のありかを示す『カギ』が伝わっているはずだ」
「しまった、そういう考え方があったか…」
財宝そのものでなくとも、それに関する情報が伝わっているかもしれない。武器があればなー、とカモニカは長い髪をかき回した。
「答えろ。ロケット、小箱、ペンダント、ディスク、歌、なんでもいい。伝承はたいていそうやって残されるものだ」
意外とこの男は読書家なのかもしれない。財宝発掘物語のパターンをよくつかんでいる。 しばらくうつむいて考えていたシャーリーは、やがて、「あります」と言った。
「よし、どこにある?」
「私たち三人の身の安全を保証してくれたら、教えます」
「それは保障する」
即座に宇宙服は言った。――仕事上、大企業の私兵や踏み倒し常習者などを相手に場数を踏んで来たカモニカは、その言葉がまったく信用できないと見抜いたが、荒事に不慣れなシャーリーは、その言葉を額面どおり受け取った。
「…分かりました。私がお爺ちゃんからもらったオルゴールが、実家にあります」
「それだ。場所は?」
「樺太のトヨハラ――のユジノサハリンスクです」
「カラフト? …サハリンか。地球だな。よし、お前もこい」
宇宙服は室内を見回して、壁際の緊急ロッカーに目をとめた。中から脱出用の簡易宇宙服を取り出す。
「着ろ。お前には道案内をしてもらう」
シャーリーが素直に上着を脱ぎ始めると、宇宙服はふと気づいたようにカモニカに向き直った。
「外にあったシャトルはお前たちのか?」
「違うわ」
「何だと?」
「私だけの船よ。それから、シャトルなんかじゃないわ」
だけ、という言葉を強調してカモニカは言った。――レーグは、悲しかった。
「なら大気圏に突入できるか?」
「馬鹿にしないでよ。金星にだって突っ込んで行けるわ」
「それはいい。私たちの船ではちょっと突入はきついんでな。使わせてもらうぞ」
「え?」
「よし、行くぞ!」
カモニカがぼーぜんとしている間に、宇宙服は着替え終わったシャーリーと部下一人を連れて、エアロックの中に入ってしまった。我に返ったカモニカがあわてて閉じた隔壁に飛びつくが、残った一人の部下が銃で押しとどめる。構わず、カモニカは叫んだ。
「待ちなさいよ、あんたなんかじゃ動かせっこないわ!」
「こう見えても私は第二種宇宙機ライセンス
をもっていてね。突入艇から一万メートル級のタンカーまで、宇宙を飛ぶものならたいてい動かせる」
「そんなのとは訳が違うのよ!」
カモニカの叫びは、エアが抜けたせいで届かなかったらしい。返事はなかった。
「モニター! モニター見せて!」
カモニカは衛星の操作盤に取り付いた。レーグがディスプレイを操作して、衛星の外の実景を映し出す。今しも、三体の宇宙服がリトルスターのハッチに入って行くところだった。やがて、リトルスターはサブバーニアを吹かしてゆっくりと衛星から離れ始めた。
「なんで? なんで動かせるのよ?」
「動かせないんですか?」
「そのはずよ。たとえあんただって、私が亜美に許可を出さなきゃ――」
カモニカは、口をつぐんだ。レーグがうなずく。
「亜美ですよ」
「あの子…」
いきなり、カモニカは叫んだ。
「亜美! ――返事しなさい! 亜美!」
カモニカのイヤリングには、通信機が仕込んである。この距離ならノイズも入らないはずだ。――が、何も言ってこない。
「応答しなさいってば! こらあ!」
「電波通信か? 無駄だ」
宇宙服の部下が、あざ笑うように銃をちょいちょいとエアロックのほうに振った。
「俺たちの乗って来た船に、ここら一帯半径五〇キロの空間をジャミングさせている」
「そんなあ!」
へたっ、と腰が抜けたようにカモニカは膝を折った。宇宙服が低く笑った。
「まあ、あきらめておとなしくしてるんだな。記憶は消去するが、殺しゃしない」
「記憶…消去?」
恐る恐るきいたレーグに、宇宙服の男はヘルメットをコンコンとつついてみせた。
「薬物でね。心配するな。痛くも何ともない」
「冗談じゃねー!」
やにわに、レーグはそいつに飛び掛かった。無重力下のケンカなら負けたことがない。
「ふん」
男は、馬鹿にしたように笑った。ひょいと横にどいて、真っすぐ向かってくるレーグをやり過ごす。
「素人が」
振り返って銃床で殴りつけようとしたとき、出し抜けに妙なモーメントがかかった。足首が後ろに引っ張られる。――レーグが、すれ違うときに足首を引っかけたのだ。
「うわっ…」
体が前にのめって、そのまま半回転した。いったん動き出すと、無重力では何かに捕まらないと止まらない。
上下逆さまになった宇宙服が見たのは、壁に手をついてバネを溜めているレーグの姿だった。
「必殺――」
思い切り壁を押し、反動で宇宙服に向かって突き進む。両足をそろえて、胸板にぶち込んだ。
「所長キイック!」
「何よそれは!」
吹っ飛んだ宇宙服は、カモニカのそばの壁に叩きつけられた。ふらふらしながら二人に向き直る。それをカモニカが、「素人はあんたじゃない」と、笑い飛ばした。
男は、選択を誤った。そこで銃を使うべきだったのだ。だが、逆上した彼は銃を捨てて腕力に訴えてしまった。
「野郎!」
「違うわ」
飛び掛かってきた男を、カモニカはひらりとよけ――なかった!
「訂正しなさい!」
びしっ、と音がした。――見ていたレーグは、驚愕した。
「バカな…」
宇宙服のヘルメットのガラス部――超極細カーボンファイバーの網で補強され、秒速数キロの宇宙塵もはじくとされている――の中央部を、カモニカのすらりとした美しい足がカウンターで蹴破っていた。
「蹴りで…メットを…」
気絶してふわふわと漂い出した男に、カモニカは冷然と言い捨てた。
「私は野郎なんかじゃないわ。《華麗な女性》よ。そこ間違えないでほしいわね。でしょ? レーグ!」
「はいっ、女王様!」
カモニカにぎらっとにらまれて、一も二もなくレーグは平伏した。しながら、勝った、と思っていた。
俺のアタマはメットより固い!
これが、この一年の間に編み出された彼の思考法である。卑屈だと笑ってはいけない。彼以外の誰に、メットを蹴破る女の部下になったつらさが分かるというのだ?
男の体からは、身元が分かりそうなものは何も出て来なかった。ほっておく訳にも行かないので、コードでがんじがらめにする。――念のために言っておくが、亀甲縛りなどにはしていない。――カモニカはエアタイトスーツの襟からメットを引っ張り出した。
「さあて、追っかけるわよ!」
「追っかけるって…どうやって?」
「決まってるじゃない。こいつらが乗ってきた船を分捕るのよ」
「あー、そーゆー手がありましたね…」
カモニカが、日頃やたら計算高いくせに、いったん頭に血が上ると見境がなくなる性格であることは、この一年でようく分かっている。余計なことを言ってもコブを増やすだけなので、レーグは黙って従うことにした。
3.
「これ…何よ?」
「…スペースシャトルだ…」
漆黒の星空を背景に浮かんでいる真っ白な翼胴一体型の宇宙機を見て、カモニカが声を上げた。レーグは、学校で学んだ宇宙史の授業を思い出していた。
「骨董品ですよ…世界初の再使用可能型宇宙船、NASAのスペースシャトルです」
「んなこた分かってるわよ!」
「え?」
怒鳴られて、レーグは思わずすぐそばのカモニカの顔を見つめた。――電波妨害のせいで通信ができないので接触会話しているのだが、その顔は耐光のために発色しているメットに遮られて、見えない。
「じゃ、なんで『何よ』なんです?」
「あんた、スカ?」
ピンクのエアタイトスーツが、飛行機のような宇宙船の翼の付け根を指さした。
「なんでスペースシャトルにCCCPなんて書いてあるの?」
「あ…」
幾つか、小さな火花が記憶の間で散った。歴史の資料集に笑い話として載っていた小さなコラム。――ソ連が行った、史上もっとも精巧で、もっともバカバカしい、アメリカの技術のデッドコピー――
「まさか…」
信じられずに、レーグはメットの上から目をこすった。
「bypaH…? ロシア語だから、ブ…ハ…」
「《ブラン》ですよ!」
レーグは叫んだ。
ブラン。大吹雪の意である。発表されたときには、アメリカのスペースシャトルとそっくりのその外形で、全世界をあっと言わせたものだ。一九九〇年代に三十数回使われたが、二番機ピチカ(小鳥)の空中爆発によって危険性が指摘され、有人飛行は中止された。以後、カザフステップのバイコヌール宇宙基地で半世紀に渡りモスボール状態で眠り続けていたが、二〇六一年に国際重要文化財に指定されて、低高度周回軌道のヴェルヌ宇宙博物館に収容されたという経歴をもつ。
外形は奇遇にもリトルスターと非常によく似ているが、全長は三六・四メートルで、五五メートルのリトルスターより二回りも小さく、また、リトルスターにはない主翼・垂直尾翼を備えている。
レーグは、感慨深げにそれを見つめた。
「ヴェルヌ博物館に係留してあった奴ですよ。あいつら、何考えて重文なんか持ち出しやがったんだ…?」
「大体、想像は付くわ」
宇宙銃を吹かしてブランの翼に降り立つ。
「宇宙船ってのは、乗るだけならともかく、借りるにも操縦するにも出港するにも、必ず航管に免許を提示しなきゃいけないでしょ。提示すれば必ず身元がばれるわ。それをせずに航行できる船なんて、一隻もない。――とっくの昔に廃籍になった船を除いてね」
「…なるほど。見事なご推理で」
二人はその宇宙機のコックピットに近づいた。ちょうど船の首のあたりに、丸いハッチがあった。
「まさか鍵なんかかかってないでしょうね」「昔のエアロックはみんな手動ですよ」
カモニカががちゃがちゃやると、がこーんという鈍い音とともに、ハッチは開いた。
核融合が実現される前の宇宙船であるブランには、当然、化学ロケットしかない。しかも、乗って来た連中が低軌道から静止軌道まで上ってくるなどという無茶をやったばかりなので、それさえ出力がおぼつかない。
しかも、操縦法が分からない。アドヴァイスシステムはなく、搭載コンピューターは音声認識もできない旧型であり、かてて加えて、表示がすべてロシア語なので、読めない。
それでも、カモニカは気合でブランを動かし、なんとか低軌道のステーションまで持って行くことに成功した。だが、そこから先、大気圏には、プラズマ剥離用の電磁バリアを持たず、しかも構造強度がはなはだ怪しいブランでは、突入できない。仕方なく、連絡船に乗り換える。
「待ってなさいよ…」
ECドイツ製・ゼンガー\型スペースプレーンの窓から眼下の地球をにらんで、カモニカは低くつぶやいた。
ACT−3 プロフズ・トレジャー
1.
「逃げられた、だと?」
腕時計に仕込んである通信機に向かって、片付け屋《ウィリアム・テル》は叫んだ。遠く数万キロ離れた宇宙空間にいる部下の恐れ入った声が、いくつかの軍用中継回線を経てさしたる減衰もなしに届く。
『申し訳ありません。ですが、あの女ただの女ではないようです』
「それはこっちでも調べた。――この船によれば、奴は、ルグリューン・エンタープライズの社長の娘だ」
『本当ですか? ――いえ、私の言った意味は、戦闘力が並外れているということですが』「なんだと? 格闘技か?」
『いえ、それが…』
縛られていた縄をやっとほどいた部下は、ユーテルサットの通信機の前で口ごもった。『ヘルメットを蹴破られました』
「何? なんでそんなことになった? 銃は? ――いや、そんなことはどうでもいい。それで奴らはどうしたんだ」
『我々が乗って来た《ブラン》を乗っ取って、低軌道に降りて行ってしまいました。ボスを追っています』
「そうか…」
しばらく、ウィリアムはじっと空を見つめていた。すでにメットも宇宙服も脱いでいるので、その眉がしかめられているのが分かる。 やがてウィリアムは、何かを決心したように「よし」とつぶやいた。
「そこから脱出する手段はあるか?」
『いえ…』
「なら仕方ない。パトロールに逮捕されろ。後で手を回す」
『了解』
「我々は、作戦に入る」
いったん通信を切ってから、今度は一般商用の回線に周波数を合わせてナンバーを押す。 RRRRR、とおなじみの電話の呼び出し音がなっている間、男はふと時差について考えた。――相手のいる場所はコロラドの山奥だから、向こうは午後一時、昼飯時である。以前深夜三時に連絡したときのように怒鳴られることは、まずないだろう。
コールしたのは、相手の私室にある私用緊急回線である。待つ間もなく、受話器を取る音がして、尊大な声が聞こえた。
『私だ』
「ハンターのウィリアムですが、いま日本のサハリンにおります」
『財宝が見つかったのか?』
「いえ、そちらはまだ。ですが、今日中には」 応答しながら、ウィリアムは無意識に時計を見た。今は現地時午後九時半、SSMTでは一三三〇である。どっちにしろ、あと数時間で手に入る。
「それより、もっと重要なことがあります。ルグリューンの白いたちと接触しました」
『なに? どういうことだ?』
ロッキー山中にあるFEADEC――シャイアン山の地下、かつてNORADと呼ばれていた、現在の連邦防空司令部にいる相手がうろたえたのが、ウィリアムにはよく分かった。努めて事務的に報告を続ける。
「ご存じでしょう? カモニカ・ルグリューンです。今、果敢にも我々を追っかけてくるところですよ」
それを聞くと、相手の声が急に急き込むようになった。
『あいつが降りて来たのか? 日本に』
「はい」
『滅多に大気圏の内側には足を伸ばしてこんあの女がか…チャンスだな』
どうやら、ルグリューンの女守銭奴はずいぶん嫌われているらしい。ウィリアムは苦笑した。
「どうします」
『消せ』
「イエッサー」
簡単な問答を終わると、ウィリアムはシートから立ち上がった。
「外に出るぞ。博士も同道してもらう」
「立て」
ウィリアムの部下が銃口をハッチのほうに振った。無言で、シャーリーは従った。
エアロックは、外に大気があるため、内壁と外壁が同時に開いた。空調されていた船内に、土の匂いを乗せた風がさあと入ってくる。
周りの景色よりも先に、その湿った香りが、シャーリーの胸に懐郷の念を湧き上がらせた。――七年ぶりの故郷の香り。
「降りろ」
夜の天蓋の下、低い草の生い茂る草原の向こうに、ぽつりと明かりがついている。ちらっとそちらに視線を走らせてから、シャーリーは乗降用のラダーに手をかけた。
2.
西経一五八度、赤道直下のキリバス共和国クリスマス島には、EC英国ルグリューン社が建設し、所有・運営している、クリスマス島スペースポートがある。水平発進型のシャトルと大気圏内飛行機の為に一万メートル級内海浮台型滑走路二本を備え、太平洋最大の
宇宙港として名高いが、圧巻はやはり、規模世界一を誇るという質量投射器であろう。
六二〇〇トン・一〇〇メートルまでの物体を第一宇宙速度七・九キロ毎秒まで加速する為に、全長八キロ最高点三三〇〇メートルという、トラス骨格に支えられた特大の超電導レールを持ち、電力確保用の専用核融合炉さえ従える、史上最も巨大な地上建設物である。かつては万里の長城が、唯一、月から見える人工物であったが、こちらはそれを優に凌ぐ。――長城の幅数メートルに対して、こちらは投射塔基底部の直径で一八〇〇メートルもあり、まさに比較にならない。投じられた資材と経費はまさしく天文学的なものである。
宇宙港では、毎日数万トンの物体が打ち上げられ、また、降りてくる。物資の種類はさまざまで、鉱産資源、食料、水、機械類、人間、その他ありとあらゆるものである。
だが、その日の午後クリスマス島宇宙港には、今まで扱ったことがないほどやっかいな荷物が到着していた。
「日本行きのエアラインで一番早い便、押さえてくれない?」
着陸と同時にコックピットに乱入して通信機を奪い取ったカモニカは、管制塔に無理難題を吹っかけた。相手は最初めんくらい、次いでカモニカの名を聞いて肝をつぶした。何と言っても、空港の持ち主の娘なのだ。
『今から四五分後にホノルル経由のJALが出ますが――』
「四五分後ですって?」
レシーバーを耳に当てながら、カモニカは、フロントグラス越しに滑走路に目を向けた。機が止まっているB滑走路と幅一キロの海面
海面を挟んで伸びるA滑走路の端で――この空港の滑走路はすべてサンゴ礁の内海に浮かんだ浮台滑走路である――離陸に備えて片翼ずつターボラムジェットエンジンの予備噴射をしている大型デルタ翼機が目に入った。
「今、隣の滑走路で空吹かしやってるのはどこ行きの飛行機?」
『あれは――シンガポール行きのキャセイパシフィック二四三便シュペルコンコルドですが、もう離陸時間でして――』
「止めなさい! 乗客を全部降ろして!」
『そ、そんな無茶な!』
「爆弾テロのおそれがあるとか機長が発狂したとか、止める口実はいくらでもあるでしょう! 乗客の苦情はファイナンスの方に回せばいいわ。あんたの職業倫理と老後が天秤にかかってるのよ?」
『わ、分かりましたよ…』
管制官が泣く泣くキャセイ航空の旅客機に指令を出すのを聞きながら、カモニカは頭を抱えていたレーグを促した。
「さ、行くわよ!」
「…所長、あんたって人は…」
訊こうとして、やめた。逆さにして振ったって、この女からはいたわりや慈悲などでてこないだろうから。
CPX二四三便シュペルコンコルド――カモニカのように英国風に発音するとスーパーコンコードだが――は、当初の予定を変更して、アジア沿海州日本の北端、千歳空港に向かった。マッハ一二の高速で成層圏を飛ぶ怪鳥は、一二〇〇〇キロをわずか一時間で渡りきった。千歳についたのは現地時間の夜九時過ぎである。
だが、それからがまずかった。サハリンも同じ日本領だというのでカモニカたちは北海道に向かったのだが、いかんせん千歳からはカラフトへの直行便が出ていないのである。 仕方がないので札束を振り回して民間の小型ティルトローター機をパイロットごとチャーターしたのだが、ユジノサハリンスク近辺に到着したのは真夜中過ぎだった。
カモニカが(実際には亜美がだが)調べたシャーリーのパーソナルデータには、無論のこと係累の情報も含まれている。後生大事にもって来た書類ケースの中にそのデータは収まっているので、それを調べることでシャーリーたちの目的地の正確な位置を知ることができた。位置が分かるのをいいことに、カモニカは機を直接そこに向かわせた。
シャーリーの家は、都市部から四〇キロほど離れた原野の中にポツンとあった。土地の周囲二キロほどを柵で囲い、その柵の一部に接するように家屋がある。今では工業合成品にすっかり主流の座を奪われた乳製品の、天然生産をやっているのだ。
上空にやって来たカモニカたちに、それが肉眼で見えた訳ではない。何しろ時刻はすでに真夜中であり、あたりに光源となるような人口密集地域もないので、周辺は真っ暗なのだ。千歳で場当たり的に雇ったパイロットが、趣味で機に赤外線スキャナーを取り付けているような通人だったのは、全くもって幸いというべきである。
そして、スキャナーから得られた対地画像には、目的のものがちゃんと映っていた。
「どーやら間違ってなかったみたいね…」
スクリーンのモノクロの画像の中央に捕らえられたずん胴の影を見て、カモニカは満足そうにつぶやいた。家屋から五〇メートルほど離れたところに居座るその影が、すなわち彼女の船の姿である。
「着陸して」
「ここにですか? 管制から文句が――」
「管制官はあんたの頭を蹴っ飛ばしたりしないだろうよ」
レーグにそう言われて、パイロットは渋々垂直降下を始めた。千歳でチャーターを断ろうとしたとき、カモニカに延髄切りをされかけたのである。寸止めではあったが、それは彼の生存本能を揺さぶるに十分な技であった。 翼端のベクタードプロペラを真上に向けて速度を緩めながら、機はリトルスターのそばに降下する。地上数メートルのところで、パイロットのささやかな平和をぶち壊した二人組は、礼と札とを機内に残して、暗い地上に飛び降りた。風を地に叩きつけてティルトローター機は去って行く。草をなびかせるのが強風から夜風に戻った後は、再び原野を静寂が支配した。
「所長、ハッチがあいています!」
言われるまでもなく、カモニカも気づいていた。リトルスターのサイドハッチが開きっぱなしになっている。何者かが入ったのか、あるいは出たのか。
それを簡単に確かめる方法があるのを、カモニカは思い出した。
「亜美、聞こえる?」
《よく聞こえます》
聞き慣れたソプラノを耳にして、カモニカは安堵した。抱えていた疑問を口にする。
「あんた、あいつらに協力したでしょ」
《あいつらとは?》
「今さっきあんたを乗っ取った連中のことよ! なんであんな奴らの言うことなんか聞いたの?」
《所長の第一命令です。以前に、『損害を出すな』とおっしゃいました。彼らには、協力しなければ破壊すると脅迫されました。私が破壊されるのは、損害の発生になります》
「協力したせいでもっと損害が出そうなのよ! あんた教授の財宝の話を聞いてなかったの?」
《所長たちがユーテルサット48に移乗してすぐに交信が不可能になりました》
「あ、そうか…」
カモニカは額を押さえた。
「つまり、奴らはその頃からジャミングを始めてたってわけね…」
気を取り直す。
「それで奴らはどうしたの?」
《出て行きました。おそらく前方の家屋の中です》
「シャーリーは?」
《ご一緒でした》
「分かったわ」
差し当たって危険がないと分かったので、カモニカは船内に入った。コックピットに上がり、床のパネルの一枚をどんと踏み付ける。跳ね上がったパネルの下には、なんと黒光りする銃火器が収められていた。やや遅れて入って来たレーグが目を丸くする。
「銃なんか持ち出してどうするんです?」
「決まってるでしょう。あの家に乗り込むのよ」
事もなげにそう言うと、カモニカはレーグに彼の武器を放り投げた。自分の得物も取り出してから、再び偽装パネルを閉じる。
「あたしが戻ってくるまでに着替えておきなさい」
そう言うと、カモニカは居住区に降りて行ってしまった。後に残されたレーグは肩をすくめると、いつも荒事の時に使うハードスーツをロッカーから取り出した。
3.
月はない。星明かりの下に、平屋の家屋が黒々とわだかまっている。さっきカモニカたちが到着したときに相当な騒音をバラまいたから、とうにバレているはずだが、動きは見られない。
「妙ね…ほんとに、まだこの家にいるの?」
《私の位置から観測した限りでは、入って行ったきりです》
「じゃ、裏から逃げたかもしれないじゃない…」
カモニカは嘆息したが、責めてどうなるものでもない。
彼女の服装は、いつもと違う銀色のエアタイトスーツに、同じ色のセラミックバイザーである。首には、チョーカーより少し幅が広めのネックバンドをはめ、手には、レミントン社製のレーザーガン、SCRスプレッドイーグルを持っている。何かにつけて母国ECブリテンにこだわるカモニカだが、英国の銃器会社では無重力戦闘用のレーザーガンが製作されていないので、仕方なくアメリカのものを使っている。今回のような地上戦闘では光兵器より実弾火器の方が有利なのだが、大体カモニカは地上に降りたがらないので、そのための武器も揃えていない。
レーグの服装は、ひじやひざなどの要所に硬プラスチックのガードがついた、上下別の白のスペーススーツである。そして手には、ルグリューン・セキュリティで正式採用している、エレクトリック・スタンガン、通称ESGを持っている。電圧は五万ボルトで護身用のスタンガンと変わらないが、電流が高いので無力化力も高い。しかし、基本的には、非殺傷用の道具である。しかもこの武器は、スプレッドイーグルと違って合法的に手に入れたものである。カモニカはレーグに銃を使わせず、これしか渡さない。「未成年に鉄砲なんか持たせられないわよ!」というのが言い分だが、レーグに人殺しをさせたくない、という本心があるのかどうかは、不明である。
姿勢を低くして裏に回ったが、窓は一つのこらずカーテンが降りている。それならどれもおんなじよ、とカモニカがのたまわり、二人は一つの窓を突入口に定めた。そこらの石を拾う。
「二、一」
ゼロとは言わず、代わりに動く。レーグが関係ない窓を石で粉々にし、その間にカモニカが目的の窓をレーザーで焼き切った。初歩的な陽同だが、相手の人数はたった二人だから、一人引っ掛かっても戦力を半分にできる計算である。
音を立てずに窓をくりぬいて、邪魔なカーテンを払いのけ、二人は部屋の中に降り立った。あいにく暗視鏡などという利器はないので目が慣れてもぼんやりとしか見えない。位置を確かめようと、カモニカは小声で呼んだ。
「レー…」
突然、ガッ、と腕に衝撃があった。銃を取り落とす。ほぼ同時に隣でも同じ音がしたかと思うと、網膜が白く染まった。明かりを点けられたのだ。
十秒ほどで、視力が元に戻った。――だが、それ以前に、カモニカは自分たちが失敗したことを悟っていた。
書斎らしい部屋の片隅に、シャーリーと、恐らく両親なのだろう初老の男女が固まっている。そして、目の前には、例の男たちがウィンスェスターを構えて立っていた。片手に薄型のスピーカーのような、ソニック・スキャナーを持っている。なるほど、それがあったから家の中から壁越しにカモニカたちの行動が読めた訳だ。
「手を頭の後ろに組んでぐるっと回りたまえ」
黙然と、カモニカとレーグは言うとおりにした。
「武器はないな」
「あるよ」
「ほう?」
あるなら言ってみろといわんばかりのウィリアムに、レーグは黙ったまま視線をカモニカの脚に向けて見せた。
「何よ」
「なんでもありませんよ」
ふいとレーグは目をそらした。
ウィリアムは妙な顔をしてそれを見ていたが、気を取り直したように空咳をした。
「わざわざ追ってきてもらったが、我々は君を始末しなければならん」
「サディスト」
「好きにいいたまえ。悪口を言われるのも仕事のうちだ」
人を殺すというのに事務仕事をしているようななんでもなさである。カモニカは内心冷や汗をかく思いだった。いま射殺する気なら、抵抗のしようがない。
引き金に力を込めようとした男が、ふとレーグの足元に目を止めた。
「ほう、ESGだな。おもしろいものを使っている。…ふむ、射殺するより、ショック死させてオホーツク海に放り込むほうがいいな」
「なんて事考えつくのよ、この変態! 殺人鬼!」
「仕事だからな。その方が発覚しにくい」
運ぶ手間が面倒だがとぶつぶついいながら、男はかがんでレーグの足元に手を伸ばした。それこそ、カモニカの望んだ状況だった。
ウィリアムの部下は、信じられないものを見た。後頭部で手を組んでいた女が、次の瞬間、拳銃を向けたのだ。
空気を絞り上げるようなレーザーガン独特の銃声を聞いて、ウィリアムははっと顔を上げた。その眼前に、小さな拳銃が突き付けられた。
「はーい、動かないでね」
「くっ」
とっさに片手でそれをはねのける。自分の銃を構え直す。その瞬間、ものすごい衝撃が横っ面を襲った。
「ぐかっ!」
部屋の壁までウィリアム吹っ飛ぶのを、そこにいた全員が目撃した。口が自然にぽかんとあく。レーグでさえそうだった。
「あなおそろしや…」
ESGを拾いながら、レーグはカモニカの脚に視線を走らせた。それが、たくましい男の体を壁までぶっ飛ばしたのだ。
「やっぱり人じゃねーな…」
「文句あるなら自分でやってみなさいよ」
レーグをぶち殴ってから、カモニカは男に銃を向け直した。壁際にだらしなく転がっている男は、口のあたりが奇妙に歪んでいる。
「骨、折れたかな…まさか死んじゃいないでしょう? 返事しなさい」
「その蹴りは…骨格強化か?」
「…失礼ね、あんたもう一発くらいたいの?」「いや、いい…」
弱々しく答えながら、ウィリアムはユーテルサットに残して来た部下の言ったことを思い出し、納得した。
「あの…カモニカさん」
部屋の隅にいたシャーリーがちらちらと男の方を警戒しながらそばに来た。
「その銃、どこに持ってたんですか?」
「この髪はただ無意味に伸ばしてる訳じゃないの。――こう、首にね」
カモニカは、髪をかきあげて見せた。ネックバンドの後ろに小さなホルスターがついていた。
「プチデビル・レディファイアって言ってね。私みたいなロングヘアの美人専用の銃よ」
レーグは、出力を落としたESGでカモニカが両腕上腕を撃った部下を気絶させた。出血はないから、ほっておいても死にはすまい。
「さあて、いろいろと知りたいことがあるんだけど…」
答える気、ある? とカモニカは訊いた。男は何も言わない。
「まー、素直に言うたー思ってなかったけど…そんならこっちにも考えがあるわよ」
カモニカが、にやあっとものすごく凄絶な笑いを浮かべた。シャーリーが横でおびえる。
「カモニカさん、怖い…」
「所長の怖さはこんなもんじゃありませんて」
苦笑したレーグを張り倒して、カモニカはイヤリングに手を当てた。
「亜美! こいつの身元は?」
《…連邦防衛軍諜報部の人間です。本名は不明。コードネームは『ウィリアム・テル』。六年前に死んだことになっています。情報部と正式に雇用契約をしているわけではありませんが、ユナイテッド銀行の口座間で資金のやり取りがあったのでつながりが判明しました。ダーティビジネス専門の傭兵です》
「…なっ…」
ウィリアムは絶句している。無理もない。連邦のデータバンクにハッキングをかけられるようなAIなど、存在しないはずなのだ。
「どうやって…」
「質問してるのはこっち。うちのAIの優秀さはわかったでしょ? ――亜美、ユナイテッド銀行って言ったわね?」
《はい。口座番号E六〇八九八三三八、プロテクトレベル・スーパーシークレット、預金額は八四五万四〇〇〇USドル、全額普通預金です》
「それを、消しちゃって」
「な、なにっ?」
《データ・デリート。…終了。口座を抹消しました》
「ありがと。さて…」
カモニカは、わざとらしくため息をついた。
「あーあ、もったいないわねえ。小型船の一隻ぐらい軽く買えそうなお金を…」
ちらっ、と視線を向ける。ウィリアムはぎりぎりと歯ぎしりをしているようである。
「亜美!」
《はい》
「全太陽系のネットを漁って、こいつ名義のあらゆる私有物と現金をピックアップしなさい!」
《了解》
「ま、待ってくれ!」
「分かった物から順に、所有権を抹消して!」
「待て!」
《了解。…第一ピックアップ、フロリダ州ウェストパームビーチのセカンドハウス、評価額一二万八〇〇USドル、デリート…》
「分かった! 話す!」
カモニカは、足元にはいつくばったウィリアムを冷たい視線で見下ろしてから、おもむろに「亜美、コマンド・フリーズ」と呟いた。シャーリーとレーグが、「鬼ですね…」とささやきあう。
かまわず、カモニカは尋問を始めた。
「さて…まず聞きたいんだけど、あんたは誰に雇われてるの?」
「連邦情報部――」
「それはもう聞いたわ。けど、情報部は民間人相手に誘拐だの殺人だの非合法活動を仕掛けたりはしないはずよ」
「…」
「考えられるのは一つだけ…情報部内の誰かが、私用に職権を濫用していること」
「…」
「言わないんなら、亜美――」
「わ、分かった! 言う。連邦軍アジア管区責任者、ハリー・キャナルスタイン少将だ」「キャナルスタイン…?」
三人は顔を見合わせた。おずおすと、シャーリーが口を開く。
「私の…親戚ですか?」
「お前の伯父だよ」
その声は、思わぬ所からかけられた。一同は振り向いた。シャーリーが呟く。
「お父さん…」
先程まで部屋の隅に座らされていた作業服姿の初老の男――シャーリーの父、エドワード・キャナルスタインは、そばにいた妻の手を取って立ち上がった。
「ハリーは、私の腹違いの兄だ。――この話題が出てくるということは、問題は、《プロフェッサーズ・トレジャー》のことだな」
「ご存じなんですか?」
「ああ。興味はなかったが、父の正妻の方の一族――つまり、そこの男の雇い主たちがしきりに探りを入れてきたものでね…」
エドワードは書斎を出、じきに古びた小箱を持ってきた。
「ウィリアム…だったな? これが目的なんだろう?」
「あ、あたしのオルゴール…」
シャーリーが、それを受け取って蓋を開いた。ホロメモリー式でもLSI式でも、ゼンマイ式ですらない、手回しのアンティークなオルゴールである。ハンドルを回すと、エーデルワイスの綺麗な旋律が流れ出した。
細い旋律に耳を傾けながらシャーリーの手元を見ていたレークが、ふとオルゴールの蓋に目を止めた。
「…? ちょっとすいません」
手を止めたシャーリーからオルゴールを受け取って、蓋をしげしげと眺める。装飾のない簡素な蓋の中央に、こう彫られていた。
Be sure to turn like the Venus.
「ヴィーナス…」
「女神のように回すこと、と言われても何のことやら…」
子供みたいな人だったからな、とエドワードは苦笑した。その時、レーグがやにわにハンドルを逆に回し始めた。キュルキュルという妙な音が流れ出す。
「亜美!」
レーグは、それをカモニカの顔につき出した。ぎょっとして後ずさりしかけるのにもかまわずに叫ぶ。
「記録して、スピードを遅くしてくれ。多分、低速録音の声かなんかが入ってる」
《了解》
キュルキュルときっちり一曲分オルゴールを逆回しして、レーグは「どうだ?」と訊いた。数秒たってから、柔らかな声が答える。
《音声が入っていました。再生しますか?》
「…思った通りです」
レーグは、一同の顔を見回した。全員、目を丸くしている。
「どうして分かったのだね?」
声をかけてから、エドワードはちょっと妙な顔をした。
「…すまんが、まだ名前をうかがっていなかったな」
言われてみればそのとおりである。カモニカとレーグは素直に頭を下げた。
「失礼しました。私はルグリューンファイナンス所長のカモニカ・ルグリューン、こちらは雑用のレーグ・ヤハイルンです」
「ファイナンス…それが、何の御用で?」
手短かに、カモニカは事の次第を語ってみせた。話し終わると、キャナルスタイン夫婦は顔を見合わせた。
「すると…借金の取り立てにきてこの騒ぎに?」
「はい」
「シャーロット…」
ため息をついて、初老の男は娘に目を向けた。普段よりますます子供っぽい表情になってシャーリーが首をすくめる。
「節度をわきまえなさいと言ってるでしょ? この子は…」
女学生の時分から研究のこととなると我を忘れる娘ですの、と母親が苦笑した。
「でもお父さん、一万ポンドものお金はちょっと都合がつきにくいでしょうね…」
「うちは現金収入が少ないもので…」
エドワードが嘆息した。すでに娘のために肩代わりしてやる気になっているのだ。いい親父さんだな、とレーグは思ったが、百数十万円そこらのお金を捻出できない、というのは、カモニカレベルの金勘定に慣れたレーグには少しだけ違和感があった。
親子の様子を黙ってみていたカモニカが口を開いたのは、その時だった。
「お貸ししたお金を棒引きにしましょうか」「…なんですって?」
キャナルスタイン一家が、飲み込めない様子で目を向けた。カモニカがニコッと笑う。「ただし、条件がありますけど」
「どんなです?」
「『財宝』をお捜しします。その一割を下さるだけで結構ですわ」
ちょっとの間、三人は絶句した。――警戒するように、エドワードが言う。
「しかし…そんな雲をつかむような話に…」
「あら、ちゃんと証拠のあることじゃありませんか」
カモニカは、そう言ってレーグの持っているオルゴールを指さした。不意に眉をひそめて、あんたどうして分かったの? とレーグに詰め寄る。
「ヴィーナスって言ったら…何を思い浮かべます?」
「ローマ神話の美を司る女神のことじゃないのかね」
ちっちっちとレーグは指を振って見せた。
「船乗り――それもバシェット教授ぐらいの人にとっちゃ、ヴィーナスっていったら金星しかありませんよ」
「金星…?」
「ご存じかどうか知りませんが、金星の自転軸ってのは黄道面から一七七・三度も傾いてんです。――つまり、他の惑星とは、ほぼ正反対に自転しているんですよ」
エドワードが顔をしかめた。
「…私は天文学には詳しくないんだ」
「それで逆回しにしたってわけね…」
カモニカはうなずいた。
「亜美、その音声を再生して」
《了解、再生します。…我が子、我が血につながるもの、キャナルスタインの名を持つものにこれを伝える…》
「…お爺ちゃん!」
流れ出た低い肉声にシャーリーが絶句した。さすがに、夫妻も息を詰める。
《…我は宝を得、道標を残す。そは四半世紀が三度巡る翌年、世界の果てより帰りくるものなり…》
「四半世紀…? 七五年?」
「七六年よ。翌年だから」
「七六年…はて七六年…」
ここんと頭を叩いたレーグが、あーっと大声を上げた。
「どしたのよ、急に」
「ハレー彗星ですよ!」
「ハレー…そうね!」
「待って下さい、続きを聞きましょう」
シャーリーに言われて、二人はまた耳をすました。老人の声が続ける。
《…我が第二の声を道標に託す。この第一の声と照らし合わさば、宝の位置は必ずや明らかにならん。再び道標が巡り来しときに、共に歩め。汝が一の星の道を越えし時、第二の声、響かん》
「一の星…?」
「しっ」
《我、切に願う。我が宝を継ぐ者が、我が遺志をも継ぐ人間であることを。…B・キャナルスタイン。…以上です》
「確かに父の声だ…」
エドワードが額の汗を拭った。それから、カモニカに目を向ける。
「子供みたいな人だと思うでしょう?」
「いい意味で」
カモニカがしみじみとうなずいた。
「こんな芝居がかったことをなさるんですから…」
「ヴィーナスの謎かけに子孫が気づかなかったら、どうするつもりだったんですかね」
「そんなユーモアのない子孫には財宝を渡せないって事なんでしょ。――とにかく」
カモニカは改まった口調で言った。
「教授が何かを隠したのはこれで確かになりましたね」
「そのようですな」
「では、さきほどの話を考えていただけますか?」
「…シャーロット」
父は、娘を促した。それに気づいて、カモニカもシャーリーのほうを見た。
「お前が決めることだよ」
戸惑ったようにエドワードとカモニカの顔を見比べ、やがてこっくりとうなずいた。
「それでいいです。――私も、お爺ちゃんの遺したものが何なのか、知りたい…」
「決まりね」
うなずくと、カモニカはウィリアムに向き直った。今まで彼女はプチデビルをずっとウィリアムに照準し続けていたのである。
「さて…あんたの身柄だけど…」
その時急に、カモニカの目が細まった。ウィリアムの側に大股に歩み寄って、あろうことか、蹴っ飛ばして引っ繰り返してしまう。
止めようとしたレーグは、後ろ手のウィリアムの手にあるものを見て息を詰めた。
「…どこに通信したの?」
カモニカに強くにらまれて、ウィリアムは隠し持っていた小型無線機を床に放り投げた。「作戦の失敗を報告しただけさ」
「…どういうこと?」
「次の手が打たれるということだ」
――低い響きが伝わってきた。航空機の音だ。それはいい。だが、この数は一体?
「ハリー少将はアジア管区の責任者だからな…日本にあるたいていの戦力なら独断で運用できる」
「何が言いたいのよ!」
カモニカが怒鳴ると、ウィリアムはやけを起こしたように叫んだ。
「少将はもう無線で今の会話を知ってしまったということだ! 私たちの価値はなくなった!」
叫び終わるが早いか、カモニカに猛然とタックルをかける。カモニカがおびえて半歩下がったようにレーグには見えた。
「しょ…」
「なに?」
靴底をウィリアムの顔にめり込ませながら、カモニカが笑った。――半歩下がったのは、足のスイングの勢いをつけるためだったのだ。 ずるずると床にくずおれるウィリアムにレーグが合掌したとき、爆音が耳を打った。
ACT−4 スカイ・ランナウェイ
1.
窓から首を出して夜空を見上げたエドワードが、数瞬後にかすれた声で言った。
「戦闘機だ…」
レーグたちも窓辺によって暗い夜空を見上げた。北の方角に、通り過ぎて行ったらしい幾つかの光点が緩やかな軌跡を描いて動いている。
「俺たちが攻撃されているんですか?」
「と、思うが…」
にわかには信じられないのだ。戦闘機に攻撃される、ということは、すなわち国を敵に回した、ということである。数人の個人に対して軍事力を投入してくるような事態が、理解できるだろうか。
旋回して戻ってくると、光点が数倍に増えた。急速にこちらに近づいてくる。攻撃されるとさとって、全員が床に伏せた。
凄まじい振動が家屋を揺るがした。
「本当だ…」
「逃げましょう!」
レーグが叫んだ。シャーリーたちには事態の打開ができないと見たからだ。
「ここにいれば必ずやられます」
「しかし…」
「この家なら大丈夫よ!」
老夫婦が住み慣れた家にこだわっているのを見抜いて、カモニカが助け舟を出した。
「連中の目標は人間だけのはずよ! 私たちが離れれば、ここは大丈夫だと思うわ! 全部片付けてから戻ってこればいいでしょ?」「…分かった」
さすがに年の功だけあって、エドワードの決断は速かった。家長が決心したので、二人の家族も従った。
五人は玄関から外へ駆け出した。すぐそばに止まっているリトルスターのラダーを駆け登る。コックピットには人数分のシートがないので夫妻には居住区に入ってもらい、三人でコックピットに上がる。
席に飛び込んで「スクランブル!」とカモニカが叫んだとき、船内が連続したものすごい衝撃音に満たされた。
「なによ?」
《機関砲の掃射を受けました。損害なし》
毎秒一〇キロ近くの速度の宇宙塵を跳ね返し得るリトルスターの外装である。たかだかマッハ四、五の機関砲弾などでは、塗装も落ちない。
情報表示ELディスプレイに流れる離陸手順をにらんでいたカモニカが、え? と声を上げた。
「亜美! エンジンの融合炉が臨界割れしてるわよ。どういうこと?」
《さきほどの人たちに脅迫されて行いました。超伝導磁場は正常ですが、燃料圧はゼロです》
「あンちくしょお!」
コンピューターだけあって、亜美の声にはすまなさが微塵もない。カモニカは呪いの声を上げた。
「飛べないじゃない! 圧を上げて!」
「所長、飛ぶだけなら大丈夫ですよ。大気圏内用のエンジンを増設したでしょう?」
「え?」
《バーティカルスラスター、ヒートラムジェット、準備完了。垂直離陸できます》
「そうだっけ。よーし…」
カモニカは、3Dコントローラーをしっかりとつかんだ。
「行くわよお…」
レーグが、後ろで立って見ていたシャーリーにちょいちょいと指で合図して、後部の補助席に座らせた。
カモニカは叫んだ。
「スラスト・スタート! 離昇!」
《了解。リフト・オフ》
船体下面の耐熱板が縦に細長くブラインド式に開き、隙間から轟音とともに高速のジェット流が噴出した。二三三〇トンの船体が震え、宙に浮く。続いて、船尾の上下に核融合エンジンとぶっちがいに装備された二基のヒートラムジェット・エンジンが唸りを上げ始め、次の瞬間、猛烈な熱風を吹き出した。
「GO!」
リトルスターは、夜空に再び舞い上がった。
2.
「じゃ、いったんファーストコーンまで行くということでよろしいですか?」
『ええ、そうして下さい』
エドワードの返事を聞いて、カモニカはインカムを切った。ファーストコーンは、英国・ルグリューン社の勢力が最も強いところである。そうそうよそからの妨害は受けない。カモニカは彼らに、いったんそこへ避難することを提案したのだ。
レーダーを見る。
「追いてきてる?」
「さっきより増えてますよ」
数が揃うまで待つつもりらしい。レーダーの光点は、次第に増えていった。
「おい、見ろよ!」
「なんだ…何?」
「どういう反応や? こりゃ…」
東京都六本木――かつて自衛隊と呼ばれた日本の軍隊の司令部があった場所だが、今ではそこに連邦軍アジア管区の対宇宙防空司令部がおかれている。
アジア各国に設置された一六五カ所の対空レーダー網、晴天専用の重荷電粒子砲、全天候用の極超高速ミサイルの三位一体と、その最終性をひっかけて、「トリ」と呼び、それらが六本木の防空司令部の電子脳と直結し、防衛警戒網を作る様を、MISSILE-DEFENSE-ALARM-SYSTEM、略して「ミダス」と呼ぶ。――二つをくくったシステム名称、「トリミダス・システム」。
だが、その防空システムが、発狂したかのような大騒ぎを起こしていた。
「北海道から関東北部――西は金沢のへんまで、所属不明の飛行物体がえらいぎょうさん飛び回っとる…これ、バグとちゃうか?」
関西出身の若い士官が、目をこすってELボードを見渡した。拡大投影された日本列島の中部、関東平野の北方の当たりが、トーンでも張ったかのように未確認物体の光点だらけになっていた。同僚がやけぎみに笑う。
「トリミダスが取り乱したってか? 笑い話にもならん」
「せやけど、しょっちゅうあるフェーディングの誤認や雨雲なんかとは、数からして違うでこれは…」
その時、今までヴィジホン相手に問答をしていた情報士官が、顔を上げて言った。
「いや、今、三沢の旧空自基地に連絡を入れて確かめた。なんでも、この司令部を通さない系統でコロラドから命令が入ったんで、格納庫の奥でほこりをかぶってた戦闘機を引っ張り出して迎撃行動を行っているそうだ……大昔の戦闘機だからビーコンが登録されていなくって、トリミダスが未確認扱いしてるらしい…」
士官たちが、ポカンと口を開けた。
「迎撃て…何を?」
「俺が知るか!」
吐き捨てるように、ELボードにもたれた情報士官は言った。
「宇宙人の戦艦でも迷い込んできたんだろ…」
その頃、宇宙人の戦艦は苦戦していた。
「だーっ、どっからこんなにうじゃうじゃ出てくんのよ!」
「スクラップにもされずに、よーもまあこん
なたくさん残ってたもんですねえ…」
新しい所ではF−38、F−35などの二〇〇〇年代後半に配備された超高性能機から、古いのではF−24、F−15、信じられないことにF−86などという博物館にすらないような超古代機まで、旧日本軍のありとあらゆる戦闘機が、仙台を過ぎたあたりから攻撃を仕掛けてきていた。
「日本人が世界一物持ちがいいって話、ほんとみたいね」
「一時期世界中の資源を浪費しまくったこともありましたけど」
非核エンジン使用時は機動性の悪いリトルスターだが、カモニカの神的操縦と持ち前の頑丈さで、何とか致命傷を受けるのは免れている。だが南下するに連れ数が倍増した戦闘機を相手にしていては、それも限界に近くなって来た。機銃弾程度ならまだしも、ミサイルを受けてはまずい。
《三時方向よりミサイル接近、――カウント、三、二、一…》
「でーい!」
気合とともにカモニカはコントローラーを捻った。呆れるほどゆっくりとリトルスターが傾く。当然避け切れる訳もなく、AIM−70キングコブラ空対空ミサイルはリトルスターの横っ腹で炸裂した。五五メートルの船体が震える。――が、辛うじて外装は形を保っている。目一杯イラついた口調でカモニカが叫んだ。
「あーっ、動きが鈍いっ!」
「仕方ありませんよ。リトルスターにゃ翼がないんですから」
エンジンの融合炉のほかに、リトルスターには発電用の核融合熱電子発電炉が一基積載されている。出力は七八万キロワット、ほぼ中規模の核分裂発電所一基に匹敵する。航行用ヒートラムジェットと浮上用スラスターは、すべてその電力で作動する。
しかし、リトルスターの本業は無重力下での核融合バーニア機動である。大気圏内をすいすい飛ぶようには作られていない。ラムジェットにしても後からくっつけたもので、最高速度は毎時八八〇キロ、音速以下である。カモニカの感覚では亀並みなのだ。
《所長、敵から勧告です》
「なんて?」
《降伏せよ。粒子砲の照準が完了している》
「戦闘機じゃ落ちないからってそんなもんまで…!」
「亜美、あれは使えるか?」
《あれ、ですか?》
「そーだ、あれがあったじゃない!」
今までと違う異様な会話に、シャーリーがぎょっとして二人の顔を見回した。
「あれって…なんですか?」
レーグとカモニカは、顔を見合わせた。カモニカは首を横に振る。それを見ると、レーグは、機会があれば教えてあげますよと意味ありげに笑った。
亜美が返事を出した。
《不可能――いえ、可能ですが、大気圏内では禁止されています。環境への影響が大きすぎます》
「ちくしょー…」
「なんか手はないの?」
レーグは、カモニカの発する怒りのオーラにたじろいで冷や汗を流し始めた。彼女がこうなったら、キれるのは時間の問題――
「レーグ!」
「ははい!」
背筋をぴしっとのばしたレーグは、だがカモニカの次の叫びを聞いて耳を疑った。
「レディ・MD!」
「――しょちょおお!」
後ろの席でシャーリーがか細い悲鳴を上げた。レーグは血走った目をカモニカに向けた。
「大気圏内で超光速航行やらかそーってんですか?」
「他に方法ある?」
「ありませんけど、あんたそりゃ自殺です! もーばっちり死にますよ!」
《お取り込み中申し訳ありませんが、重火器の照準用とおもわれるレーザー波を、確かにキャッチしました。敵のブラフではありません。一分以内に降伏せよとの通達です》
「……分かったわよ!」
がっくりとカモニカは肩を落とした。思ったよりも素直である。
「急にどうしたんです?」
「ここで死んだら、誰が私の遺産を管理するのよ!」
心底いまいましそうにカモニカは言った。
《再び通告です。館山旧自衛隊基地に降下せよとのことです》
「りょーかい!」
投げやりな言い方をして、カモニカは乱暴にコントローラーを回した。
「しかしなんでこんなおおげさなまねを…」
「それだけ《財宝》に価値があるってこってしょーよ」
――房総半島の先端、館山軍用空港に、ススだらけのリトルスターはふらふら降下していった。攻撃を中止した戦闘機たちが随伴する。 滑走路の上空で、リトルスターは静止した。徐々に垂直スラスターを絞って降下し、コンクリートの滑走路にふわりと接地する。
「さて…年貢を収めましょうか」
ラムジェットを切ると、疲れたように笑って、カモニカは立ち上がりかけた。
《メイン融合炉、臨界達成》
突然、亜美が告げた。カモニカは、一瞬きょとんとしてから、言った。
「――なんですって?」
《起動させろとのご命令でした。炉内部、温度一億度K、プラズマ粒子密度一〇〇兆個毎センチキューブ、『ローソンの条件』達成しました。臨界一〇〇パーセント、核融合開始》
「そういえばそんなことも言ったわね…」
核融合エンジンで動けたって粒子砲はかわせっこないわよ、とカモニカがため息をついたとき、不意にシャーリーが叫んだ。
「電磁バリアです!」
「…それがどしたの?」
「EMバリア――対プラズマ用の強力な磁場なら、粒子砲を防げます! エンジンが起動したなら、発電炉の電力をバリアに回せるでしょう?」
「そっか…ビームも同じプラズマだから…」「大気圏内で核融合を行うんですか?」
レーグの言葉に、二人は一瞬押し黙った。が、亜美がその沈黙を破った。
《リトルスターのD−He3型の核融合炉でしたら、放射性廃棄物は三日ほどで半減期をクリアします。――環境への影響は、ほぼありません》
「――吹かしていいのね?」
《はい》
「よーし! ふっふ、見てなさいよ。主機さえ吹かせりゃこっちのもんなんだから…」
一瞬前までとは別人のような生気に満ちた顔で、カモニカは3Dコントローラーをつかんだ。
「行くわよ!」
戦闘機のパイロットたちは驚愕した。
『おい、また動き出したぞ!』
『構わん、離陸したなら撃墜命令が生きてくる。墜とせ!』
『待て! ――なんだか知らんが、司令部がすぐそこから離れろって言ってる!』
夜の房総半島上空を飛び交っていた戦闘機群は、一斉に散開した。その中心に、まばゆいプラズマの炎を吐きながら、リトルスターが浮かび上がる。
《EMバリア展開》
亜美の声と同時に、機体全周に大気圏突入時に用いられる無色の高磁場が張られた。
――山梨・静岡県境の日本最高峰、富士山の山頂で、光が瞬いた。関東・東海圏半径一五〇キロの空をカバーする口径三二〇ミリの重荷電粒子砲が、その雁首をぐうっと東南へ巡らせる。衛星回線を通じたコロラドからの命令が指揮系統をスキップして届き、回路のセフティが外された。
一瞬、富士東麓は真昼のような光に包まれた。正円錐の壮麗な山容が暗闇の中にぼうっと浮かび上がる。細く絞り込まれた銀の槍は、残光を残して御殿場・小田原両市の上空から相模灘を一直線に渡り、正確無比に館山市上空二五〇メートルのリトルスターを直撃した。 想像を絶するエネルギー同士が衝突した。銀の槍が紫電の盾に弾かれて千々に砕ける。だが、その戦いは、あっけなく終わった。
「生きて…ますね」
「よおおおっし! ブラボーよブラボー!」
周囲に闇が戻っても、リトルスターは平然としていた。その強力な磁場で、高エネルギーの陽子流を弾き返したのだ。
「こーなったらこっちのもんよ! 矢でも原爆でもタンカー一杯もってきなさい!」
事態を悟った戦闘機部隊が、再び攻撃を開始して来た。搭載しているすべての火器を使い切るべく、八方から殺到してくる。
「とろい!」
カモニカは一言で切って捨てた。細い指が3Dコントローラーを細かく動かす。それに応えて、後部のメインエンジンが真っ白な光芒を吐き出した。今までとは桁違いに強力なパワーを得て、リトルスターは巨体に似合わぬ身軽な動きで攻撃をかわし始めた。
リトルスターは、船首と船尾にそれぞれ上下左右の四方向バーニアを装備している。それらの、一基で軽くリトルスターの重量を支え得るほどの出力が、船の常識はずれな高機動を可能にしていた。
そして、それを操るカモニカの手腕が、神だった。航法でレーグに、演算で亜美に一歩を譲るカモニカが、二人に抜きん出るのが、金勘定とこれ――操船技術だった。
「ほらほら当たんないわよそれじゃ! どこ見てんのよ!」
最大で、瞬間八G近くにも達する加速度に平気で耐えて、カモニカはリトルスターを振り回し、戦闘機群をからかい倒した。シャーリーはとうに気絶しているし、レーグも酔ってしまって瀕死である。
「なんで所長だけ平気なんだ…?」
――決して性能が低い訳ではない戦闘機群も、リトルスターには手も足も出なかった。バルカンは効かず、ミサイルは外れ、挙句の果てにはバックを取られて体当たりされるというていたらくである。
さんざん戦闘機をからかったあげく、リトルスターは進路を東――大気圏離脱方向に転じた。融合炉を起動してしまった以上、もう宇宙港のカタパルトの助けを借りなくとも大気圏外に出るのは可能だからだ。追撃してくる戦闘機群を、四G連続加速、マッハ三〇以上の圧倒的な高速で引き離して、リトルスターは故郷へと向かった。
2.
地球圏――地球を中心に、月軌道までの半径三八万キロメートルの球形空間――には、LP1のホーキングSSGからLP5の天星SSGまで、五つの宇宙都市群が存在する。それらの内部での行政は、建造以来、連邦から統治を信託委任された、五つの国によって行われていたが、二一〇〇年にかねてからの計画通り独立し、それぞれ独自の行政委員会(内閣)と、一階級上の地球外大気圏総統治委員会とを行政機構として戴くことになった。 一見無駄なように見えるこの段階的な処置にも、実はちゃんと意味がある。最初、既存の国家に各SSGの行政が任されたのは、それらの国の首脳部に蓄積されている執政に関する膨大な経験――というより、経験そのものから演繹される、全く未知の事態への対応の柔軟性が、コロニーという、未知の環境に置かれた人間集団の統率に役立つと判断されたからであり、それが途中から自治に変わったのは、人が住んだ土地に必ず形成される、その場所独自のルールというものを尊重するためであり、また、やがて必ず起こるであろう急進的な独立運動の――現にテラフォーミングが片付いた後の火星でそういった騒ぎが起こったことがあった――火種が産まれるのを防ぐためでもあった。
だが、この方法にはひとつ問題があった。当時かなり物分かりがよくなっていた「国家」は、信託委任の期限が切れた所でおとなしくSSGから撤退したが、そこに「企業」が残ってしまったのである。
企業は、国家が退場した後も舞台に居座り続けた。宇宙開発は膨大な金を食うため、それに関わった企業は巨額の利益を手にすることができた。必然的に扱う金のレベルも二〇世紀に比べて二桁ほども大きくなり、優に国家と同程度の発言力を持つまでに成長しており、それがそのままSSGに居残ってしまったのである。これ幸いと、国家も自国籍の企業を利用し、原価タダの国家予算を資本として投下した。企業はその見返りに、国家の宇宙における手足となって動くようになった。信託統治から自治への移行は、この怪物が残ってしまったことによって、実質上失敗したという見方さえあるくらいだ。
結果として、SSGの自治は健全性を失ってしまった。政治の表裏両面にわたって、企業の経済的協力がなくては立ち行かないようになってしまったのである。
人間の科学と精神の――別に、知識と知性、文明と文化、理屈と感情、知と徳などと置き換えてもいいが――跛行性は、二二世紀になっても改善されていなかった。科学――細かく言うと大脳医学が、ミクロ物理学、化学、工学その他の分野からの協力によって、大脳の機構を完全に解明してはいたが、いくら洗脳が技術的に可能になったからと言っても、それを人心制御のために使うのは、社会的に不可能だったからだ。
つまり、人間の心は依然として不完全なままだったのである。――何を完全とするかを見極めること自体、不完全な人間には不可能であるにしても。
と、堅い話はこれぐらいにして。
ルグリューン社は右記の悪徳大企業の一つであり、LP1に本社をおく。自動的にルグリューンファイナンスの本社もここになる。 しかし、事務所こそコロニー内に構えてはいるが、実質的なファイナンスの本拠地は、高速艇リトルスターそれ一隻である。
地球から逃げ出して来たリトルスターは、いったんファーストコーンのルグリューン社専用埠頭に戻って来ていた。
リトルスターの応接室――必要に応じてカモニカたちのプライベートキッチンやリビングに化ける――で、カモニカとシャーリーはテーブルを挟んでいた。
「じゃあ、こういうことでまとめていい? 私たちは、あなたが教授の財宝を手に入れるのに協力し、見返りとして、その一割を受け取ると」
「ええ」
「ただし、教授の財宝なるものが存在しなかった場合、第三者の手にわたった場合、金銭的価値が低かった場合――言い換えれば、あなたの手にお宝が転がり込んでこなかった時には、裁判所に申し立てて返済不能の処置を取ると」
「――ええ。それで結構です」
裁判所、というところで少し身を縮めたようだったが、シャーリーは素直にうなずいた。「さてと、協力態勢は固まったこったし、レーグの奴はどうしたかいなと…」
レーグは、LP1の中のルグリューン傘下のリゾート施設にシャーリーの両親を預けに行っている。そろそろ戻ってくるころだ、と思っていると、都合よく本当に戻ってきた。
「気に入ってもらえたみたいですよ。サハリンよりあったかくっていいんですと。腰のほうも大丈夫だそうです」
脱出行の途中のハイG機動で、ご老体たちはあちこち故障を起こしてしまったのである。だが、それも大したことはなかったそうだ。
「やーしかし、ハリー少将とやらも大袈裟な手を打ってきてくれたもんですな」
《あの軍事行動そのものと、もう一つ、責任者のハリー少将が雲隠れしてしてしまったことで、メルボルンの連邦軍統合参謀本部は大騒ぎのようです》
「雲隠れって財宝を探しに行ったんでしょ?」
「そうそれです。あのメッセージをこちらも考えないと行けませんや。亜美、もう一回聞かせてくれ」
《はい》
原音に忠実に再生された音声を聞いて、レーグはうーんとうなった。
「これはつまり、ハレー彗星について行けって事ですかね」
「それ以外に考えようがないけど…亜美、どう思う?」
《私には分かりません。暗号として扱うには曖昧すぎます》
「AIもまだまだね」
カモニカが苦笑した。
「この、一の星っていうのは一つ目の星って言うことでしょうか」
「一つ目? 水星か。…だとしたら大変じゃありませんか!」
「どしたのよ、急に」
「多分これは、ハレー彗星が、水星の軌道を越えたときって意味ですよね。――でもハレー彗星は、なくなっちまうんです!」
「…そういえばそんなこと言ってたわね」
「のんびりしてる場合じゃありませんよ! ハレーが蒸発するのは水星軌道の辺だって話なんですよ?」
「今、奴どこ?」
カモニカの問いに、亜美が平然と答えた。
《太陽から六〇〇〇万キロ――水星軌道まであと二〇〇万キロ、八時間九分です》
「なんですってえ?」
カモニカは椅子を蹴倒して立ち上がった。
「冗談じゃないわ! すぐ出航よ!」
《了解》
カモニカはコックピットに駆け登って行ってしまった。レーグはため息をついた。
「あの人きっと、土曜日生まれだな…」
《レーグ、どういう意味ですか?》
珍しく亜美が質問して来たので、レーグはハシゴに歩きながら答えた。
「所長の国の民謡だよ。Saturday’s child works hard for his living(土曜日生まれの子はよく働く)…ってね。俺たち、地球から帰って来てから一睡もしてないだろう?」
3.
SSMT〇一〇〇――深夜に、リトルスターは出航した。すでに破損箇所の修理や燃料の補給は、ルグリューン社の整備員によって済んでいる。
ファーストコーンから一千キロの距離を取ってから、リトルスターは、南――黄道面に対して天底方向――に降下した。ちなみに、黄道面とは、太陽系の冥王星を除く各惑星の軌道が通る平面の事である。八個の惑星はほぼ同一の平面上を動いているので、それを黄道面と呼ぶのだ。
深度一〇万キロで、いったん静止し、管制からMDの許可が下りるのを待つ。
MD――超光速航法である。そのあまりの高速のあまり、障害物の多い黄道面では使用できない。そこで、太陽系内にはMD専用の航路面が設定されていた。すなわち、太陽系の中から外に向かう場合は、黄道面より一〇万キロ上方の平行面、その逆なら、一〇万キロ下方の平行面である。
目標のハレー彗星は春分点から一七〇度ほどの所におり、そこまでの距離は約一億五〇〇〇万キロメートル、大体一天文単位である。
管制からの許可が出た。
リトルスターの船体重心に位置するMDSが起動した。瞬間、白い船体を漆黒に染めて、リトルスターは消滅した。
ACT−5 ハレーズ・コメット
0.
二一〇八年、インドネシアのシャイニング・スター社が新型船「ゼフィール」の公開性能実験の様子を放映したとき、初め、人々はそれを何かの冗談だと思った。――その船は、LP4から一〇〇〇キロ離れた空間で、いきなり消滅し、同時に、当時もっとも遠い有人基地があった天王星の衛星オベロン上空三二〇〇キロの空間に、忽然と出現したのだ。
ちょうど衝のときに行われた実験だったが、それでも地球−天王星間の距離は二七億三〇〇〇万キロメートル、光速でも九一〇〇秒を要するほど離れていた。それを、この船は一瞬――正確には〇・〇三〇三秒――で渡り切ったのだ。
これが、メガドライブ――超駆動の誕生であった。発明したのは、インドネシア大のカナグ・ナスティオンである。
物体は、光速度に達することができない。
これは、かの有名なアインシュタインの特殊相対性理論より導き出される、蹴っても叩いても壊せない頑丈な定理である。
しかし、こう言い換えることはできないだろうか?
物体でないものは、光速度に達し得る。
また、
物体は、光速度以上になら達し得る。
こう言った論理の魔術は、古くからSFの世界で、また実際の討論に用いられて来た。相対論に触れないように光速度を得ようとするもの、また、相対論そのものを否定するもの、方法はさまざまだったが、二一〇八年まで頑強な光速の壁を破るものはなかった。
カナグ・ナスティオンが編み出した論理は、『光速に触れず、それ以上の速度に移行する』種類のものであった。ただ、それまでにあった数多の理論と違った点は、相対論そのものによって超光速を導き出したことだった。
物体には質量がある。質量がないものは光だけであり、故に光は光速で移動できる。
では、物体の質量を強制的に――消費せずになくしてしまったらどうなるか?
答えは、あの有名な『カナグの速度式』に求めることができる。相対論と量子論を彼が独特の方法でアレンジして編み出したその速度式は、発表当初イカサマだこじつけだと猛然たる反論が湧きおこりかけたほど強引なものだったが、同時に奇抜なものでもあった。 MDに突入した物体は、その瞬間から毎秒九〇〇億キロメートル――自乗光速の速度を得る。突入後に方向と速度を調整することは不可能である。ただし、その状態の持続時間だけは、任意に決定できる。人類の航行には、それで十分である。
だが、弱冠一九歳でその理論を完成させたときカナグの頭をよぎったのは、ガリレオ、コペルニクス、マックスウェル、ポンスとフライシュマン、ジャンスキーら過去の物理学者たちがくぐった、旧弊な連中による轟々たる非難のトンネルの事であった。彼はそれを恐れた。だが、その素晴らしい理論を埋もれさせはしなかった。
ではどうしたか。二〇七七年、彼は突然専攻を変え、惜しむ先輩や教授の制止を振り切って、猛然と経済学の勉強を始めたのである。 彼は貿易商となり、二五年間、本意ではない金稼ぎに精を出し続けた。人間、捨て身になれば怖いものなどない。商談はまとまり、取引はうまく行き、事業は急速に発展して、二一〇〇年には彼は押しも押されぬ大商人になっていた。
そして二一〇五年、彼はシャイニング・スター宇宙船会社を設立し、晴れて新船を設計・建造した。まず実験によって、理論を揺るがぬものにしたのである。
彼が規範としていたのは、そう、あのシュリーマンだった。
1.
《MD終了、オールグリーン。現在、太陽まで五九五〇万キロ。二時方向五〇万キロにハレー彗星の核です》
「…なによこれ!」
正面スクリーンには、淡い黄色の粒子面がまるで壁のように立ちはだかっていた。いつも見慣れている、無数の破れ穴があいた漆黒の天幕とは、似ても似つかない。
「これ一体なによ?」
「ハレー彗星のコマですよ。…亜美、核の位置を正確につかんでくれ」
「コマ? 彗星ってそんなに大きいの?」
「本体はたかだか長軸一五キロ程度の氷の塊ですけどね、太陽風にぶん殴られて毎秒五〇トンっていうもの凄い量のチリを吐き出すんで、それが核の周りに何重もまとわりついて
んですよ。――亜美、太陽風の強さは?」
《六・二五×一〇の一七乗MeV…成分、陽子八八パーセント、α線一一パーセント、他、重原子核一パーセントです》
「うえ…熱量は?」
《平方メートル当たり八七五〇ワット毎分。温度上昇が気掛かりですので、自転します》「分かった」
「何語? 今の会話は」
レーグにとっての経済と同様、カモニカにとっての天文はインカ語である。レーグにしてみれば、江戸の敵を長崎で討ったようなもんである。
「要するに、太陽に近すぎるんですよ。水星軌道じゃエネルギーも地球近辺の六倍以上ですから…」
《船舶を発見しました。船籍シグナル無し。方位二時、距離二四万キロ》
「船舶?」
三人は顔を見合わせた。
「調査船かなんかじゃない?」
《違います。以前手に入れたIAUのデータによれば、現在ハレー彗星に接近調査を行っている船舶は存在しないはずです》
「あの…ハリー少将の船じゃありませんか?」
シャーリーの言葉に、カモニカとレーグは顔を見合わせた。
「それは有り得るわね」
「追ってみましょう。亜美」
《了解》
メインスクリーンにガイドカーソルが出る。それが中央にくるよう進路を微調整して、カモニカは主機を吹かした。ぐん、と加速Gがかかる。スクリーンのほの光る壁がぐっと迫って来た。
「壁にぶつかっちゃいそうな気がするんだけど…」
「ぶつかるんじゃなくってぶち抜くんですよ。亜美、EMバリア最大! 衝撃波面に突っ込むぞ!」
《了解…》
出し抜けに船体が軽く揺れた。視界が一瞬光ってから、一面ぼうっとした黄色っぽい闇になる。カモニカが悲鳴を上げた。
「こんなんでどう飛べってのよ!」
《そのまま加速を続けてください。今、衝撃波面を越えました。ここはコマの中です》
「相対位置と速度は?」
《本船は核の左斜め前方から降下して行っています。所長、二G加速を行いながら、右舷前後のスラスターを一〇一・五パーセントで噴射しっぱなしにしてください。いったん核の後ろを横切ってから、核の右横に並びます》
「わ…分かったわ」
肉眼ではほとんど何も見えないので、亜美に従うしかない。カモニカは言われた通りにコントローラーを少しだけ回した。
核から吹き出す微粒子によって作られる、コマ――輝く光の球の中を、リトルスターは高速で進んで行く。周囲の粒子は電離・プラズマ化しているので、それを船体に接触させないようにするEMバリアは不可欠である。《船外温度急上昇…二四〇〇…二五〇〇度Kを越えました》
「危険じゃない?」
珍しく不安そうに言って、カモニカが額の汗を拭った。
「大丈夫、内部コマとの接触面に近づいているんです。…あと何秒だ?」
《すぐです》
亜美の言葉と同時に、船体にさっきより強い衝撃があった。《外部温度低下、三四〇度K。グリーンレベル》と亜美は報告したが、そのとたん、ものすごい振動がリトルスターを襲った。
「何、これ?」
「しゃべっちゃいけません! 舌を――」
言いかけて、レーグはうめいた。舌をかんだのである。
痛みが収まってから、かまないように舌を丸めてしゃべる。
「微粒子の雲に突っ込んだんです! 接触面さえ抜ければ――」
と言っているうちに、振動がふっとなくなった。
《接触面、越えました》
一同は安堵のため息をついた。
スクリーンには、ぼんやりと黄色く輝く深い濃霧が映し出されている。太陽光での反射ではなく、イオンによる自家発光である。
「この霧みたいの、何なんですか?」
科学者らしく、興味しんしんといったていでシャーリーが訊いた。
「核から蒸発して吹き出したチリ――分子状の元素です。OH、H、CO、あとシアン――青酸や、かなり高級な有機分子なんかも含んでるそうです。昔はそのせいで、地球の生命は彗星の衝突でできたなんてよく言われましたが…まあ、密度は地球大気の一〇〇兆分の一以下だそうですから、真空とたいして変わらんでしょうね」
《一酸化炭素が少ないようです。通常三パーセントのものがほとんどゼロで、代わりに二酸化炭素が七五パーセントほど増えています》
「ねえ、なんでハレー彗星なんかが関係あるんだと思う?」
シャーリーとレーグのインカ語の会話にたまりかねて、カモニカが話を分かる方向に戻した。レーグが、これは推理ですけどと前おいて言った。
「バシェット教授の専門は小惑星でしたよね」
「ええ」
シャーリーがうなずく。レーグは、その目をのぞき込んだ。
「すると、彗星の調査なんかもやってらしたんじゃありませんか?」
「そう言えば…そんなことも聞いた覚えが…」
つまったシャーリーに代わり、亜美が補足した。
《バシェット・キャナルスタイン教授は、IAUの彗星調査委員に加わっていたことがあります。七六年前、前回の接近時に、ハレー彗星にポジション確認用のマイクロ波発信機を取り付ける作業の指揮を執ったそうです》
「それよ!」
びっくりするような大声でカモニカが叫んだ。
「その発信機に『財宝』を隠したんだわ!」
《目標発見》
「なに?」
「どこよ」
簡潔な亜美の報告に、レーグとカモニカはスクリーンに注視した。亜美が出した赤い縦ラインと青い横ラインが画面左下当たりでクロスし、その交点が続けざまに何段階かズームアップされた。
《距離一二〇〇キロ、倍率三二〇〇〇倍です》
チリで輪郭がぼやけてはいるが、確かにそれは船だった。砲弾型、つまりリトルスターと同じタイプだが、大きさが違う。表示された縮尺と対比してみると、全長一六〇メートルぐらいか。
《後方につけて下さい。――あ、今彗星の核も捕らえました》
直ちに亜美が位置関係を処理してスクリーンに三次元映像化して表した。可視光線だけではなく、UHF、センチ・ミリ・サブミリの各マイクロ波、そして赤外線から紫外線まで、幅広いバンドでレーダー走査した結果を合成した表示である。線 画 化されたその表示を見て、カモニカが腕まくりを――しようとしてジャケットを着ていなかったので、そのそぶりをした。
「よーし、位置が分かりゃこっちのもんよ。亜美、あの船の横にぴったりつけるわよ!」《攻撃される危険性はありませんか?》
「このプラズマの嵐ん中じゃ、人のことまで構っちゃいられないと思うわ」
《了解》
ドン! と凄まじい加速Gが襲った。レーグとシャーリーは席に押し付けられてじっと耐えるだけである。なのに、カモニカは平気でコントローラーを回している。
「臨界二〇〇パーセント、最大加速!」
《了解》
左右両エンジンあわせて二七九六〇トンの最大噴射が、リトルスターを今にも破砕しそうなパワーで加速させる。連続一二Gというほとんど無人機なみの高加速に、シャーリーが気絶してしまった。
《核まで五〇〇キロ、目標船まで三〇キロです。――核に変化があります!》
「…どう…した?」
息もたえだえと言った様子でレーグが聞いた。スクリーンとサブディスプレイに立て続けに何行かのデータが表示される。
《核から電波が――四五五ギガヘルツのミリ波で強力な電波が放出されています》
「発信機のもの?」
《おそらく。…赤外線センサーに急反応! これは…》
突然、視界が白く染まった。
2.
…所長! 所長!…
「なによっさいわね…」
ぶつくさ言いながらカモニカは目を開けた。――右からレーグ、左からシャーリー、天井から亜美のカメラがのぞき込んでいた。
「あ、気付かれましたね」
「…私、気絶してたの?」
《はい。五分ほどですが》
「――なんであんたたちが起きてて私だけ気絶したのよ!」
「だって、所長はベルトも締めずに操縦してたでしょう」
「…そういやそうだったわね…」
頭を振ってから、何が起こったの? とカモニカは訊いた。
「彗星の核が爆発しちまったんです」
「爆発?」
《正確に言うと、蒸発です。プロミネンスバーストの影響で太陽の陽子フレアのパワーが一時的に急上昇したので、それにあぶられて核が砕けてしまったのです》
「…じゃ手掛かりが――」
「あの直前の電波が手掛かりじゃないでしょうか?」
《電波が発振されたのは、ちょうど水星軌道を越えた瞬間でしたから、人為的なものでしょう。ただ今解析中です》
「あっそ。で、ここはどこ?」
「彗星の残粒子から抜け出すとこですよ」
《一G定常加速中。疑似ホーマン軌道を取って水星軌道から離脱中です》
カモニカは体を起こした。スクリーン越しの宇宙はもういつもの暗さを取り戻しており、無数の星が瞬かずに静止していた。
《電波の解析終了。これも音声です。お聞きになりますか》
「お願い」
《…我が指し示すほうへ向かえ。…以上です》
「それだけ?」
ちょっと拍子抜けしたように、カモニカが見上げた。それだけです、とそっけなく亜美が答える。
「我が指し示すほう…」
一つの言葉を唱えて、三人は首をひねった。――レーグが、コンソールをいじって散滅する前のハレー彗星の映像を出した。
「…彗星のしっぽのこっちゃありませんか?」「しっぽ?」
あり得るわね、とカモニカはレーグの隣に立ってスクリーンを見上げた。レーグがキーボードを叩いて、太陽系の俯瞰図を呼び出す。「各惑星の現在位置は、と… 亜美! 太陽系の天体で分かってる限りの奴を全部表示してくれ!」
《データのないものがかなりありますが――》
「じゃあ、よそからデータをもらって――ほら、ソシオサットなんかどうだ?」
《太陽系俯瞰衛星ですね。了解》
太陽の極方向を通る軌道の、黄道面からの高度約一四億キロメートルの点には、連邦航路局の太 陽 系 俯 瞰 衛 星が存在する。ほぼ太陽系全域をリアルタイムで見渡すために設置された衛星である。
MD通信筒を使って瞬時にソシオサットとの交信を終えた亜美が、太陽系図にざーっと細かい光点をちりばめ始めた。
「教授の専門は小惑星だ。…細かいのも見逃さず頼む」
《了解》
「それと、ハレーの尻尾の延長線を重ねて、一致するものがあるかどうか調べてくれ!」「ねえ、よその恒星ってことはないの?」
カモニカが横から口を挟んだ。ありません、とレーグは断言する。
「MDが開発されたのは、前回ハレーが来た時より後ですからね」
「あ、そうか…」
《直径一〇メートル以上の物体はすべて表示しました》
亜美に報告されて、レーグは全図を見上げた。少しカーブしたハレー彗星のしっぽを長く延ばして、その先に突き当たるものを探す。――冥王星軌道を過ぎても何も見当たらない。
「…おかしいな。絶対正解だと思ったのに…」
レーグが首をひねったとき、シャーリーがおずおずと口を挟んだ。
「あの…今のハレー彗星の軌道って、毎回くる時と違うってきいたんことがあるんですけど…」
「…それです、それ!」
手を打ってレーグは亜美に命じた。前回の回帰の時のハレー彗星の軌道を調べ、それが変わらなかった場合の、今回のハレー彗星の位置を算出させる。
新たに出た座標がスクリーンに追加された。そこから、カーブした線が伸びて行く。ある一点でその線が光点と交わったのを見て、カモニカが歓声を上げた。
「――これよ! 木星軌道後方トロイア小惑星群…パトロクロス観測基地!」
行くわよ! と叫んでカモニカは早速コントローラーに手を当てた。――それを、レーグが片手で押し止めた。
「? どしたのよ?」
「待ってください、引っ掛かることが…」
《所長、さきほど追尾していた船が回頭しました》
「…何ですって?」
すっかりそんな船のことは忘れていたカモニカが、ワンテンポずれた返事をした。
《目標、MDに入りました。…方角は、春分点から六六・九度。――後方トロイア群の方角です》
「し…」
しまったあ! とカモニカは叫んだ。
「先越されちゃったじゃない! 追うわよ!」
コントローラーを握ったとき、やけに冷静にレーグが言った。
「ちょっと待ってください。…この彗星は確か、以前に酸素の備蓄タンクと事故りましたよね」
「…だからどうしたってのよ」
「2CO+O2=2CO2です!」
「はあ?」
「一酸化炭素が酸素と化合して二酸化炭素になっちまったもんで、COの青い輝線が出て来ないんですよ!」
「ちっ、ちょっと待ちなさい、いい子だから」
どうどう、とレーグを押し止めてから、つまりどういうこと? と目をのぞき込む。熱っぽくレーグが説明する。
「ですから、ハレー彗星にはもう一本の尾があったはずなんです!」
「もう一本…」
「の尾です! 今見えてる塵の尾のほかに、青白いイオンの尾が!」
「…で?」
「その青白い色は、尾の中に数パーセント含まれた一酸化炭素の――」
《三パーセントです》
「三パーセントの一酸化炭素イオンのスペクトル光なんです! それが全部タンクと衝突したときに酸素と化合して二酸化炭素になっちまって、発光しなかったもんだから、あるはずの尾が見えなかったんですよ!」
「てーこたーつまり…」
「そっちの尾の方が通常はよく見えるし、形だって直線なんです! 道標と考えるならそっちのほうが自然です!」
「よくわかんないけど…」
カモニカは興奮するレーグから天井に視線を移した。
「亜美、分かる?」
《さきほど修正したハレー彗星の座標からさらに、タイプUダストテールではなく、タイプTイオンテールの存在を仮定して延長線を伸ばすということですね?》
「そうだ!」
《――該等するものはただ一つ、小惑星帯外縁の小惑星、ナンバー二〇二一五−二〇四八ECのみです》
付け加えるならば、と亜美は言った。後方トロイア群パトロクロス基地は、二〇八〇年、前回ハレーが去った遥か後の建設ですので、財宝が存在することはあり得ません。
「よおし…」
カモニカが、パキパキッ、と指を鳴らした。「財宝はもらったわよ…」
――リトルスターは、水星軌道周辺から違法MDに突入した。
ACT−6 リトルスター
0.
カナグ・ナスティオンが発明したMDは、技術的にも、社会的にも、太陽系に未曾有の大騒ぎを引き起こした。
超光速、ついに実現!
その報は世界を駆け巡り、アカデミーに強烈なインパクトを与えた。カナグは公開実験と同時に理論を世界に公表していたので、誰でもその理論を検証することができ、また実際に船は光速を越えていたので、疑うものはいなかった。外宇宙への進出プランが山と練られ、うちいくつかは、早くも国家、企業によって実行されようとした。
そこに、連邦が待ったをかけた。
連邦の言い分はこうだった。――外宇宙に進出しなければいけないほど人類は増えすぎているか? というものだった。 否である。人類の総人口は、その時一八〇億人で静止していた。食料自給率は九九・九九八パーセントで、それとて地球軌道の食料プラントが全部完成すれば一〇割を越す予定だった。土地は、コロニーの建設と火星の地球化によって間に合う見通しだった。
無限の宇宙に夢を見てどこが悪い、と言い張るロマンチストたちには、歴史が突き付けられた。――フロンティア、結構。だが、かつてアメリカに移住したヨーロッパ人が使った言葉は、まさにそれではなかったか? 彼らがインディアンを殺すとき、罪悪感は全くなかった。罪の意識もなく、いるかもしれない地球外の生命体のテリトリーを犯す危険性が、ないと言えるのか?
「人類は、未だ、不関知罪を犯す危険を回避し得るほど成熟していない」――それが、連邦の出した結論だった。
二一三八年現在、人類の外宇宙活動は、太陽系内に希少な元素の制限付きの採取作業と、学術探査に限られ、MDはもっぱら太陽系内の航行に用いられていた。
1.
小惑星。最大のセレスでも直径一〇〇三キロで月の三分の一以下、その他のザコどもに至っては一〇キロ程度の体格しかもたないが、大きさの代わりに数でこなすと見えて、火星軌道と木星軌道の間に、一〇万個以上がうじゃうじゃと帯状にひしめいている。
幅約一億五〇〇〇万キロのその帯の最外縁で、空間が揺らめいた。今まで何もなかったそこに、小さな船が出現する。
《MD終了。――前部、上部竜骨、左舷後部に軽損傷発生。さきほどの彗星突入の影響だと思われます》
「それ、不都合になる?」
《真空中を航行する分には差し支えありません》
「OK」
カモニカは、スクリーン越しの宇宙空間を見回した。見慣れた月もなく、太陽も遠い。あるのは、数十キロほどの間隔を置いて散らばる、無愛想な石ころだけである。
シャーリーが、まるで寒さを感じたかのように身を震わせた。
「殺風景なとこですね…」
「そうですか? この辺は金属目当ての鉱企業なんかがたくさんプラント立ててて、結構にぎやかな区域なんですけど」
「そんなことより目当ての小惑星はどっちよ」
花より団子のカモニカには、亜美が相手をする。
《一〇時方向、仰角七八度距離八〇キロ。至近ですね》
「まあね」
船を回すと、スクリーンの中央にカーソルが出た。それが正面にくるように小刻みに修正噴射しながら、カモニカは距離を詰めていった。
「ねえ、財宝って何だと思う?」
「さあ…」
「俺にゃ見当もつきませんが」
「一〇〇〇億ってもねー、現金じゃなかったらどこで換金しよ…」
カモニカが皮算用をしていると、亜美が静かに言った。
《目標捕捉。…直径一二メートルほどですが、非常に捕らえにくい天体です。アルヴェードわずか二パーセント、電波もほとんど反射しません。赤外線、紫外線、X線もほぼ無反応です》
「なにそれ?」
カモニカが眉をひそめた。レーグが、フェライトでも塗ってあるのか? とスクリーンを見上げる。
《――どうやらそのようです。磁気反応あり。レーダー波吸収用の磁気フェライトを塗ってあるようです。中身は炭素質コンドライト型の小惑星のようですが…おや?》
妙に人間臭い言い方をして、亜美がスクリーンの端にアラートランプを点けた。
《…所長、後方四〇〇〇キロに船舶がMDアウトしました》
「船? どっかの鉱石船じゃ――」
《形状を映します。鉱石船ではありません》 サブディスプレイの映像を見たカモニカは思わず大声を上げた。
「あー! さっきの船だ!」
CCDテレスコープに捕らえられた船は、まさにさっきまいたはずの船だった。見る間に純白の噴射炎を物凄い勢いで吐き始めたので、急加速をしているのがよく分かった。
「どーしてここが分かったのよ!」
《…所長、今MBC――火星放送を入感しましたが、私たちの行動がすべて報道されています》
「まー、これだけ派手に飛び回りゃ、ブン屋にもかぎつけられますわな」
レーグが肩をすくめた。カモニカはぎりぎりと歯を食いしばっている。
《後方の船舶からマイクロ波で通信です。出ますか?》
「回して!」
ザッと薄いノイズが入ってから、通信回路がつながった。初めて聞く男の声が流れ出す。
『…こちら、連邦軍アジア管区軍所属高速艇《サンダーアロー》だ。カモニカ・ルグリューンだな?』
「初対面で私を呼び捨てるなんて、いい度胸ね。あんたがハリー・キャナルスタイン少将?」
『…その通りだ』
「一つだけ言いたいことがあるから、よっく聞きなさい」
すうっ、と息を吸い込む。
「大馬鹿野郎!」
船が破裂しそうな大声でカモニカはどなった。さすがに、しばらく返事が返って来ない。一分も経ったと思われるころ、ようよう平静を装った声が流れ出した。
『財宝を相続する権利があるのは、私だ。シャーロット、そこにいるな? 教授の隠し子の子孫であるお前などではない』
ぷちっ、といったんカモニカは通信機を切った。はあっ、とため息をつく。
「やっぱり分かってない。…思った通り、バカだったわ」
「所長、何が言いたいんです」
「別に。ただ、まだこんな、赤んぼ並みの所有欲とぺらぺらな正当意識をもった奴が生きてたんだなって思って」
通信回路を再び開いて、カモニカはめんどくさそうに言った。
「あんた、ド三流よ。いちいち諜報員を使ったり軍隊動かしたり、そんなハデハデしいことやってなんのメリットがあんの?」
『…』
「挙句の果てにどーでもいいような血統の正当性なんか持ち出して来るなんて、一体何考えてんのよ。大体矛盾してるわ。一回軍隊動かすなんてバカやったんだからさ、最後まで悪人で押し通せばいいじゃない。正当なら堂々と正面から話し合いに来りゃいいんだし、そうでないならもっと悪に徹しなさいよ。半端すぎるわ」
『…』
相手の沈黙が、怒りのあまりのものであることは、カモニカには手に取るように分かった。――ただ、痛いところを突かれて怒っているのか、こっちの言っていることが分からなくて怒っているのか、それは不分明である。 その時、シャーリーが前に出て来た。
「私に言わせてください」
「…いいわよ」
カモニカに代わって、シャーリーが静かな声で言った。
「ハリーさん、シャーロットです。…あなたは、お爺ちゃん――教授に、そう言われたんですか?」
『――なんだと?』
通信機の向こうで相手が戸惑う気配があった。シャーリーはサブディスプレイの相手の船を見つめながら、淡々と言った。
「お爺ちゃんにだっこされて、言われましたか? これをお前に上げるって…」
『…それがどうした――いや、お前は、一体、何が言いたいんだ?』
「あなたはお爺ちゃんの何を継ぐんですか?」 シャーリーの鋭い言葉が宇宙を貫いた。
「ただ血がつながっているだけですか? あなたは、継ぎたいんじゃないでしょう?」
『…』
「私は――」
ぐすっ、とシャーリーは鼻をすすった。
「お爺ちゃんの残したものを――お爺ちゃんが残したから、継ぎたいんです…」
お爺ちゃんが教えてくれた宇宙を、とシャーリーは呟いた。――相手が何か喚こうとしたとき、カモニカが、通信機を切った。
「もう聞く必要はないわ。…話の通じる相手じゃないわよ」
「そのようですね。…敵船、接近しています。大かた移乗白兵戦でもやるつもりなんじゃありませんか」
亜美が相対位置を立体表示した。パネル上浮かび出た敵の予想進路は、ぴったりリトルスターの未来位置と重なっている。
と、その時、実写スクリーンに映っていた敵船の映像が奇妙な形に崩れた。レーグがはっと息を飲む。
「奴ら――武装していますよ! ペイロードベイから何か出してます!」
いい終わらないうちに、亜美のアラートブザーが響き渡った。自衛回路が働き、カモニカの指示を待たずに急な回避運動を行う。
4Gの緊急上昇を行ったリトルスターの腹をかすめて、見えない高エネルギーの束が駆け抜けて行った。
《砲撃を受けました。火器分類、紫外線レーザー砲。かなり強力です》
「猫を脱いだわね…」
《電磁波感知。敵船、EMバリアを展開しています》
「亜美! 両舷全速!」
《了解》
核融合炉の磁場強度が跳ね上がる。内部に封じ込められた超高圧のプラズマが奔騰した。 星空に光の塊が現れた。それが消え去らないうちに、中から光の針が飛び出した。自分自身の吐き出した光粒子さえおいてけぼりにするほどの加速度でリトルスターは突進した。
「ローリング!」
両舷に備えられた垂直ノズルから高圧の推進剤が吹き出した。たちまちリトルスターは竜骨を軸とするスピンを始める。続いて、カモニカは左舷だけのスラスターを噴射した。スピンの速度に合わせてモーメントが変わり、船の進路自体が螺旋になっていく。
サンダーアローはこの幻妙な機動を追い切れなかった。矢継ぎ早に放たれたエネルギーの矢は、ことごとく宙を裂いていく。
「突っ込むんですか?」
全力噴射の余波でびりびり震えるコックピットで、レーグが叫んだ。カモニカが――下手をすれば血流が止まる重加速の最中だという
のに――笑った。
「あれをやるのよ!」
カモニカはコンソールの隅の赤いスイッチを跳ね上げた。途端に、コックピットの照明や画面表示が、すべて消えた。
《コンバットシークエンス・オープン。上部外装展開》
「目標、悪党の船!」
《了解》
必死でGに耐えていたシャーリーは耳を疑った。戦 闘 態 勢? だが、疑問を口にしようにも体が動かない。
「最接近点で相手の五〇センチ横を通って!」
秒速数十キロに達する猛スピードで、リトルスターは一直線に突進した。
「目標、突っ込んで来ます!」
サンダーアローのブリッジは恐慌に陥った。特攻でもするかのように相手の船が真っすぐに突っ込んで来たのである。
「落ち着け! 当たりはせん!」
ハリーが船長席から立ち上がって大声で命令を下した。さすがに軍人だけあって、声の底に鉄塊のような重量感があった。
「奴らとて自殺するつもりはないはずだ! やり過ごせ!」
オペレーターが、幾つもあるスラスターのうち片舷のものだけを盛大に噴射した。リトルスターの三倍の船体がゆっくりと横に滑る。 その間にもリトルスターは急速に迫っていた。一瞬だった。非望遠スクリーンにぽつんと点が映り、急速に視野一杯に広がり、次いで消えたのは。
何も起こらなかった、と悟った士官たちは、安堵してこわばった筋肉から力を抜いた。
《ローディング完了。ファイア?》
亜美の声を聞きながら、カモニカは左舷前部と右舷後部のスラスターを全開にした。ぐるりと前後が反転する。すかさず、垂直ノズルを吹かしてロールを止める。ぐるぐる回っていた視野が、ぴたりと停止した。そしてその中央に、敵船のメインエンジン噴射口が――唯一EMバリアの守護がない場所が、映っていた。
リトルスターは、船首を敵に向けながら、遠ざかっていく。その背が割れて、細長い筒が真っすぐに突き出していた。
「殺せばいいってもんじゃないのよ!」
カモニカはファイアボタンを叩いた。瞬間、リトルスターの上部竜骨に沿ってつけられたガイドパイプの基部で、超小型のプルトニウムカプセルが起爆した。
核反応によって生み出された極短波長の電磁波――硬ガンマ線は、正確にサンダーアローの核融合ノズルを貫いた。機関部から、MDシステム、居住区、ブリッジまでの電子機器は、この凄まじいEMPの直撃を受けて、回路内に高電位差を発生、一度に全てショートダウンした。
《サンダーアロー》は、この瞬間、超硬合金製のハリボテと化した。
2.
「…なんなの? これ」
リトルスターのハッチからその小惑星に降り立ったカモニカは、地面をコンコンと蹴飛
ばした。――反動でふわりと浮いてしまう。
ちょっと向こうで分析器を使って表面を引っ掻いていたレーグは、分析結果の表示ディスプレイを見て、目をしばたいた。
「…ほんとかよ? うげっ!」
「ごめーん、止まんなくなっちゃって」
レーグの頭を足掛かりに静止したカモニカが、手を合わせて拝んだ。
「で、なんだったの?」
「聞いて驚かんでくださいよ」
レーグはアナライザーを、それが凄いものででもあるようにカモニカにつきつけた。
「この小惑星は、炭素の塊なんです!」
「…炭素?」「あの…Cですか? 原子番号6の、鉛筆の芯の…」
カモニカのそばに立ったシャーリーが、怪訝そうに首をかしげた。――レーグは、ちっ
ちっちと指を振って見せた。
「言ったでしょう? 塊です。結晶構造の、ね…」
「結晶…」
「って、…まさか!」
「そう、そのまさかです。…この小惑星は、何千億カラットっていうダイヤモンドの塊なんですよ!」
女性二人が息を呑んだ。――ずいぶんたってから、シャーリーが、嘘でしょう? と言った。
「嘘なもんですかい、値段なんかつけようがない物凄い財宝です。――一千億ポンドってのは切り売りしたときの価格でしょうね。天然ダイヤの価格ってのは半径の五乗に比例してつり上がりますから、無垢でこの大きさだと、地球買ってもお釣りがくるでしょう」
「…そんなことってあるの?」
半信半疑で、カモニカがしゃがみこんで地面をつついた。亜美が物静かな声で説明する。《この小惑星は、炭素質コンドライト――つまり、この太陽系の生成した遥か四六億年前に形成した小惑星の、核の部分です。炭素を多く含んだ小天体同士がぶつかりあい、その時の超高温・超高圧で、炭素が結晶化され、中心部に凝縮し――それが、何かの事故で表面の炭素をはぎとられ、芯の結晶だけが露出したのでしょう》
「それを、おそらくバシェット教授が発見し、未来にハレーで指し示される位置に運んで来て、フェライトで隠したんです」
「へええ…」
三人とも、しばらくその場で足元を蹴ったり、地面をさすったりしていた。――あまりのことに、何をどうしていいのか分からないのだ。
しばらくして、亜美が報告した。
《所長、警察の船が近づいて来ます》
「警察?」
《はい。さきほどの戦闘を目撃されたのでしょう》
「あ、しまった…」
つい頭に血がのぼっちゃったもんなー、とカモニカはメットの上から頭をかいた。レーグが、血がのぼらなくても十分凶悪だとかなんとかつぶやいて、耳ざといカモニカに蹴飛ばされている。それを見ながら、シャーリーはくすくす笑った。
「ついに逮捕かあ…」
《その前に説教だ! バカもん!》
突然無線に割り込んできた聞き覚えのある声に、カモニカは辺りを見回した。
「会長?」
《父さんと呼べ。また今回は派手にやらかしたな。どんな騒動だったんだ?》
レーグにも聞き覚えのあるその声は、カモニカの父、ジャスティ・ルグリューンのものだった。シャーリーの通信機にも、その声は入っている。レーグが、所長の親父さんですよと耳打ちした。
「どこにいるのよ!」
《目の前だ。警察のランチに同乗しとる》
「なんでこんなとこにいるのよ?」
《昨日あたりから起こった騒ぎを、順々に追跡して来ただけだ。お前の他にこんなバカ騒ぎを起こす奴がおるか》
「…そんなに派手だった?」
《当たり前だ! 連邦の悪徳高官と追っかけっこした挙句に、相手を事故らせちまうなんて、これが派手じゃなくてなんだ?》
「事故?」
聞き返したカモニカの耳に、レシーバーを通して、ジャスティのしーっという声が聞こえた。
《事故だ。――かねてから背任横領、経費着服、軍律逸脱、命令違反、越権独断専行で軍部の煙たがられ者だったハリー・キャナルスタイン少将は、権限を逸脱した私的な行為で公船をお乗り回しになったあげく、事故られたわけだ。軍もマスコミも連邦も、それで八方丸く収まる》
「…やっぱ、借り一?」
《当然だ!》
わはははと豪快な笑い声が聞こえた。――レーグは、カエルの親だ、と納得した。
「子が見事にかえってるもんなー…」
《少将の船は太陽系警察が保護した。――EMPを食らってぶっ壊れてたって事は伏せるように、話をつけといてやったぞ。…まったく、登録上は民間船なんだから、ちっとは火器を使うのを自重せんか!》
「ごめんなさーい」
さすがに父親だけあって、手回しのよさはカモニカ以上である。
《詳しい話はLP1に戻ってから聞く。帰るぞ!》
小惑星に発信機を取り付けると、カモニカ立ちはリトルスターの船内に戻った。これで、もう一度輸送船を連れて来たときにも、すぐ位置が分かる。
主機が唸る。リトルスターはゆっくりと加
速を始めた。名前の同じ兄弟に、太陽系で最も高価な小惑星・リトルスターに一時の別れを告げて。
エピローグ
人はなぜ二本足で歩き始めたか?
楠田枝理子という二〇世紀の日本人がこれに答えていわく、
「全天にきらめく星を見ようと、立ちあがったんだって解釈は、どうかしら。そうして、恋する人にその星々を送ろうと、手を伸ばした行為が、直立歩行を固定した…」
以来二〇〇万年、人は高みを目指し続けた。ルキアノス、ベルヌ、リリエンタール、モンゴルフィエ、ライト兄弟、ゴダード、ツィオルコフスキー、フォン・ブラウン…
空を目指した人間は数知れぬ。しかし、大気圏を突破することは、容易ではなかった。厚さ二〇〇キロの空気の壁は、背伸びする人類の行く手を、無慈悲に阻み続けた。
しかし、現在。宇宙は人に極めて近い。
もし、今、カモニカが前に向かって八歩歩けば、人類の二〇〇万年を凌ぐことができるのである。
LP1ファーストコーン。宇宙都市の港の先端にある展望ラウンジに、彼女はいた。眼前には、厚さ五・八メートルの高密度クリスタルガラスを隔てて、星空が臨める。
「おい、カモニカ」
カモニカはガラスに手を当てて振り返った。宇宙都市のこの辺りは無重力なので、移動するときはあちこちに手をつかねばならない。 ジャスティが、ラウンジの入り口を指していた。キャナルスタイン一家が入って来た。こちらに気づいて危なっかしげに飛んでくる。
「おーっと」
ガラスにぶつかりかけたエドワードを、レーグが引っ張って止めた。
「さて、それじゃ全員そろったようだから話を始めましょうか」
カモニカは、ケースから数枚の書類を取り出した。例によって慣れた手つきで、皆に見えるよう、順に空中に立てて行く。
「まず、あの小惑星の所有権のことだけど…発見者が教授である以上、法律的にはその子孫のものになるわね。相続税とか遺産分与だとかごちゃごちゃあるけど、まず一番肝要な点を述べると――」
両親の手を取ってバランスを保っていた、眼鏡の女性に、視線をぶつける。
「シャーロット・キャナルスタインさんのものになります」
「…なぜです?」
「遺産譲渡には遺言と生前贈与があるのは知ってるでしょ。あなたは後者に当てはまるから」
「え? でも…」
「オルゴールよ」
どこからか例のオルゴールを出して、カモニカは浮かべた。
「あの小惑星は、あなたによって今回ちゃんと再発見された。――それは、このオルゴールがあったせいだから、広義に考えれば、このオルゴールが、教授の、小惑星の譲渡意志を表すものになるのよ。そしてそれは、あなたに渡された…」
「法律的に正しいのかね?」
エドワードに、訊かれて、カモニカはうなずいた。
「正しいわ。この際、オルゴールのメッセージの中の、我が遺志を継ぐものどーたらっていう文句は関係なくなるから。――このオルゴールは、シャーリーに手渡された時点ですでに、『特定の個人に資産を譲るための委任意志』として扱われて、『不特定の対象に資産を譲渡する宣言』とは見なされないから…。ま、その時点で名義がシャーリーに移った訳だから、もともとハリーには相続権なんかなかったんだけどね」
「…よく分からんが、問題はないということだろう」
エドワードが穏やかにうなずいた。――ハリーと同じくらいの年の人だが、えらい違いだ、とレーグは感じ入った。
「それをシャーリーが相続するとして、生前譲渡だから逆上って勘定して、動産で、非現金で、貴金属で…」
何やらぶつぶつ言ってしばし書類を見比べてから、カモニカはうち一枚を取り上げた。「シャーリー、あの小惑星の評価額のうち、税金として六八パーセント持って行かれるわ」
「そんなにですか?」
彼女の驚きは、彼女の金銭欲とは無関係である。「租 税 国 家」に対する驚きが、素直に声になっただけだ。
「幾らぐらいなんですか?」
「さあねえ、電卓からケタがはみ出してたのは確かだけど…」
「…私が払うんですか?」
「払えれば、そうなるわ」
「払えないときは?」
これは、レーグの台詞である。
「譲渡されたものを叩き売って、税金に当てることになるけど…」
書類の一枚――LP1まで輸送してきた例の小惑星の分析結果――をつまんで、カモニカはひらひら振った。
「あんなもん、売ろうったって売れないからね…」
確かに、貨幣に換算すれば莫大な価値があ
る。だが、あまりにも莫大すぎて買い手がつかないとなれば、まったくの死価値でしかない。シャーリーが困惑しきった顔でカモニカを見つめた。
「…どうしたらいいんでしょう?」
「こうするしかないわ」
さらに一枚の書類を出すと、カモニカはぴっと回転させてシャーリーにつき出した。
「あの小惑星の信託貸与証明書よ」
「貸与?」
「そ。ルグリューン・ファイナンス宛のね」
シャーリーが目をぱちくりさせた。
「あたしにあれを預けてくれれば、それを担保に税金分とあといくばくか貸してあげるわ。…あなたのサイン、くれない?」
「でも…あたしはお金を返せません」
返す当てなんかないんです、と目を伏せたシャーリーに、カモニカは笑って見せた。
「あなたはとてつもなく価値のあるものをもってるじゃない」
「私が?」
「超々光速の研究をしてるんじゃないの?」
あ、とシャーリーが口を押さえた。――レーグを始めその他の面々は、何のことやら分からずにカモニカとシャーリーの顔を交互にのぞき込むばかりである。
「超々光速…って、なんのことですか」
ちょっとためらってからシャーリーは、笑わないで下さいね、と前おいて、こう言った。
「ワープ航法の研究です…」
「ワープ?」
シャーリーは恥ずかしそうに下を向いた。「超々光速――超光速以上の移動方法の研究です」
「超々…メガドライブ以上の?」
「ええ」
レーグに顔をのぞき込まれて、シャーリー
はますます身を縮めた。
メガドライブ
「今のMD航法――超駆動は、銀河系内を移動するには最適の手段です。八万光年を一〇〇日、三カ月で渡ることができるんですから。…けれど、この方法が完成すれば、人類は宇宙のどこにでも瞬時に行けるようになります。無限速で移動できるようになるんです」
「ワープって、超空間航法とか亜空間航法とか言われる、あれですか?」
「はい。夢物語だなんて言われてますけど、私は可能だと思います。MDだって昔は机上の空論だったんですから」
暫時、一座のうえに沈黙が落ちた。しばらくしてジャスティが呟く。
「エドワードさん、凄い娘さんをおもちになられましたな」
「いえ…」
エドワードは、誇りと困惑をないまぜにした表情を浮かべている。
「――しかし、もしそれが完成したとすれば、確かに物凄い経済効果をもたらすな」
そう言ったあと、ジャスティは自ら、前言を否定した。
「いやまて、太陽系外への進出は連邦に禁じられているじゃないか」
「…そこよ。会長」
「父さんと呼べと言っとるだろうが!」
「そんなこたどーでもいいわよ。――私、その点についてずっと考えてたんだけど…」
ぷいっと振り向いて、カモニカは突然レーグに目を向けた。
「これ、そこの少年」
「は?」
「あなた、連邦のこの政策をどう思う?」
「政策――と申しますと、外宇宙植民禁止令のこってすか?」
「そうよ」
「ハッキリ言って嫌いです」
きっぱりとレーグは言った。
「そりゃ議会のご老人方は、過去を振り返ってぬくぬくと地球で老後をすごしゃいいでしょうが、俺たちはまだ人生の五分の一も来てないんですよ。あと八割の人生を、とっくに調べ尽くされた太陽系の中をうろついて終わるなんざ、御免こうむりたいですね」
「シャーリーは?」
「…私もそう思います。連邦は、人類を太陽系に封じ込めようとしているみたいだから…」
「みたいじゃなくってその通りなのよ」
カモニカはなんでもないことのように言い放った。
「連邦は、外宇宙への進出を禁じてる。――経済が悪化するとか、他種族の領域を侵す心配があるとか、そんなのは全部口実よ。本当の理由は、臆病だから。成立から八〇年を経た連邦は、気弱な老人になっちゃって、人類を太陽系に縛り付けようとしてるのよ」
「悟ったようなことを言うな、お前は」
ジャスティが苦笑した。
「カモニカ、お前はどうなんだ?」
「そういう父さんはどうなのよ」
カモニカは、ジャスティに挑発するような視線を向けた。
「父さんも、連邦の爺いどもやハリー少将みたいに、過去にこだわって今を見失う大人? ルグリューンの会長は、リスクのない賭けはしなくなったの?」
「…好き勝手を言いおって」
答えながら、ジャスティは苦笑していた。カモニカの意図を読んだのだ。
「わしと連邦を噛み合わせようって腹か?」
「そんなんじゃないわ。――連邦を引っ繰り返そうって言ったのよ」
とんでもないことを言って、カモニカは危険な笑みを浮かべた。
「やってみたくない? 連邦をぶっつぶして、太陽系外への進出を認めさせるのよ。ルグリューンの力ならできるはずだわ」
「……よし」
ジャスティの顔にも笑みが浮かんだ。カモニカのそれと同じ笑みだった。
「やるか」
「やりましょ。…シャーリー」
「はい」
「ルグリューンの力を見ててね。今にきっと、銀河系に旅立てるようにしてあげるわ」
「はい!」
娘を見つめるエドワードの胸には、遠い過去の心象が去来した。バシェット教授――太陽系開発のパイオニアを親に持ったことを誇らしく思った、子供の頃の感慨が。
人は、すべからく前進するように生まれついているのだ。
ラスト・スラスター
「期待してるわ。――あなたがMD以上の、最終推進器を造るのをね」
シャーリーは、力強くうなずき返した。
「あそこに行くんですね」
レーグが窓の外を見つめながら言った。窓に、細長く輝く光の帯――天の川がかかっていた。
その景観が古代の空に広がったそれと異ならぬ以上、見上げるカモニカたちの胸中の異なろうはずがなかった。
――了――
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