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エンジニア・ユニッタ
これは、
地上を走り回る鉄の車も、
天まで届く高い家々もなく、
ピストルも、
剣も、
それどころか、
魚をさばき木をくりぬく小さなナイフすらない、
きらめくような緑に覆われた不思議な国の、
一人の女の子のお話です。
第一章 ユニッタ
1.
「出てけーっ!」
戸口から飛び出した男の背中に、怒鳴り声といろんな道具が投げつけられた。木づち、石刀、ガラスのハサミ、焼き物の器。
工房の戸口に立ったユニッタは、両肩のみつあみを震わせて荒い息をしていたが、べーっと舌を出した。
「役立たず! 二度と来るな!」
「あー、あれはもう戻ってこんな」
奥の作業場から、黒光りするなめし革の前掛けをした老人が出て来た。ユニッタの祖父のブンゼンである。
「まき割りや水くみはうまかったんじゃがなあ」
「いくら力こぶがあったって、熱湯入りのなべをひっくり返してるようじゃだめよ。まったく、男ってのは使い物にならないんだから」
つるつるのきんかん頭を傾けて惜しそうにしているブンゼンをおいて、ぷりぷりしながら、ユニッタは工房の中に戻った。組み木の椅子にどすんと腰を下ろす。
しばらくむくれていると、ユニッタがぶん投げた道具を拾い集めて、ブンゼンが入って来た。
「ユニッタ?」
「……」
「落ち着いたかね?」
「……ごめんなさい、おじいちゃん」
ユニッタは、立ち上がると、振り向いて頭を下げた。
「ついカッとしちゃって……また二人だけになっちゃったね」
「よいよい」
ブンゼンが、目を細めてユニッタの頭をなでた。
「おまえは、間違ったことは、言っとらんのだからね。なに、すぐ次の手伝いを探すさ」
「来るかしら」
ユニッタは心配そうに祖父の顔を見上げた。
「嫌がられてばっかりだよね。女の下で働けるか、って」
「見る目がないんじゃな」
ブンゼンは、優しく言った。
「そのうち、おまえの職人としての腕を分かってくれる男が、必ず来るさ。そしたら、わしも安心してぽっくり行けるというもんじゃ」
「縁起でもないこと言わないで! それに、わたしが欲しいのは助手であって、お婿じゃないんだってば!」
「そうかそうか」
ブンゼンは笑って、道具を片付けている。「わたし、顔洗ってくる」
「済んだら、ぼちぼちお昼にしような」
背中で聞きながら、若草色のシャッポと前掛けを脱いでユニッタは裏口から庭に出た。
「んー……いい天気……」
鼻をつんと刺す木の香りを、初夏の風が運んでくる。ユニッタの家は森の中の一軒家だ。
周りは、緑また緑の広大な森。樫の木、椎の木、ブナの木、ケヤキ。どこまでも果てしなく続く森。
緑の国スプリタリカ。
それが、ユニッタが住む国だ。国全体が、広大な森に埋もれている。人々はあちこちで森を切り開いて、そこに村を作っている。
ユニッタが顔を洗っていると、森の向こうから、沸騰したやかんが立てるような音が近づいて来た。ただし音量は百倍も大きい。
じきに、音は家の表で止まった。ぶしゅーっ、と盛大な排気音が聞こえてくる。
ユニッタは工房に戻った。ブンゼンが窓から表を見ている。
「誰か来たね」
「あの音はカーバイドじゃな」
音で誰が来たか分かるのだ。ブンゼンは、工具箱を持って出て行った。ユニッタも続く。
金木犀の植え込みの向こうに、盛大な水蒸気の煙幕が盛り上がっていた。その向こうから、がらがらにかれた男の声が聞こえてきた。
「いよう爺さん、景気はどうだ?」
「おかげで、三度の飯には困っとらんよ!」
水蒸気が薄れると、その向こうに巨大な影が見えて来た。
ヒグマほどもある大きなボイラーの上に、ずん胴の煙突が立ってうっすらと黒煙を吐き出している。ボイラーの周りには配管やシリンダーが、生き物の血管のようにからみついている。すべての仕組みは、三つの車輪に支えられた車台に乗っていた。
気 動 車と呼ばれる蒸気走行車である。ユニッタの家は、この気動車を製造する工房だった。
前部にある、ボイラーと比べたらあきれるほど小さい運転席から、紺の上っ張りを来たひげ面の男が、身軽に地面に降り立った。フェルマットの町で雑貨屋を開いているカーバイドという男である。
出迎えたブンゼンの肩を、親しげにはたく。
「二カ月ぶりか? 足腰はしっかりしてるみたいだな。なによりだ」
「あいにくと目もおつむも絶好調じゃ。あんたの月賦の残りも忘れとらんぞ!」
「おいおい、会うそばからそれかよ、きついな」
カーバイドは頭をかきながら、ユニッタに目を移した。
「いよっ、ユニッタ。相変わらずこればっかりか?」
壁を拳でたたくような仕草を、カーバイドはした。ユニッタはうなずいた。
「ええ、まあ」
「たまには町に遊びにこいよ。そんな美人が穴ぐらで機械いじりばっかりじゃ、もったいないってもんだ」
「穴ぐらじゃありません!」
「うおう、小型ボイラーの爆発だ。ちと石炭をくべ過ぎたか?」
おどけた様子でカーバイドは笑った。三〇年来ブンゼンと付き合っている彼がユニッタをからかうときの、決まり文句である。これでも可愛がっているつもりなのだ。ユニッタはぷりぷりしている。
「して、今日は何の用じゃ。支払い日にはまだ一週間あるはずじゃが」
「おう、そいつもついでに前払いしとくよ。こいつは昨日まで、本当に役に立ってたからな」
カーバイドが、ボイラーの木製防熱ジャケットをたたきながら言った。ブンゼンが眉をひそめる。
「昨日まで?」
「昨日市場に言った帰りに、急にスピードが出なくなっちまった」
「ああ、それでこのモクモクか」
まだ辺りにたゆたっている水蒸気の中に、ブンゼンはどれどれと首を突っ込んだ。
「漏出箇所は……ああ、ここじゃな。うわっち!」
ぶしゅーっ、と突然新たな水蒸気が噴出して、ブンゼンが飛びのいた。
「おじいちゃん、大丈夫!?」
「あちち、いや、たいしたことはない」
ブンゼンは、手の甲をもみながら振り向いて言った。
「シリンダーへの送気管に穴が開いておる。何かにぶつけたじゃろ? そう、位置からして、厩舎の柵か、街道辻の道しるべか」
「おっ、さすがは名職人」
カーバイドは頭をかいた。
「その通りだ。市場の門のところで、飛び出して来たアヒルを避けた拍子にガツンとな」
「じゃろ。これはわしの不手際ではないぞ」
「わかってるって。手間賃はずむよ。何日ぐらいかかる?」
「そうじゃな……」
ブンゼンは、不意にユニッタを見た。
「何日かかる?」
「え? えーと……おじいちゃんなら、今日の日暮れまでには……」
「おまえがやるんじゃよ」
「えーっ!」
ユニッタは飛び上がった。
「わ、わたしが?」
「おいおい、ユニッタに直せるのか?」
カーバイドが不安そうに言った。ブンゼンはしかつめらしく腕組みなんかしている。
「四タズ径のテューガ管の新造、パッキン交換、漏出検査、ついでにボイラーと冷却器の細管検査もしてやろう。代金は二〇〇リンガにまける。なに、わしが横で見ててやる」
ブンゼンは、にやりと笑った。
「いつもいつも木づち片手に内径合わせばっかりじゃ、あきるじゃろ? そろそろ実践に移ってもいいころと思っとった」
「おじいちゃん……」
ユニッタは、口を引き結んで絶句した。その顔が真っ赤に染まってくる。
「わたし、やる!」
「ほほう、で、作業時間は?」
「あしたの日暮れ……いえ、昼までに!」
「そんなとこじゃな。どうかな?」
ブンゼンはカーバイドの顔を見た。下を向いてしばらく考えてから、やがてカーバイドは顔を上げて言った。
「爺さんの孫だ。間違いはあるまい。――まかせるよ」
「ありがとう!」
ユニッタはカーバイドに抱きついた。よせよせ、と言っていたひげに埋もれた顔が、急に真っ赤になる。
「……? どうしたの?」
「いやおまえ……成長したなあ。ついこないだまでパンツ一丁で駆けずり回ってたのに」
「――エッチ!!」
ぱあん! とビンタの音が森に響いた。叩かれながらもカーバイドは笑っている。
「さて、わしはこいつを裏に回すよ」
ブンゼンが運転席に飛び乗って、蒸気チョークを開いた。シュンシュンシュン、と音を立てて気動車がゆっくりと動き出す。
表に残されたユニッタは、後ろを向いている。カーバイドが、笑って言った。
「デリカシーのないのは生まれつきでな、これを見て機嫌を直してくれ」
「……なに?」
カーバイドの顔を見ないで、ユニッタは差し出された紙片を受け取った。
「前に俺が言ってただろ? 正式に日取りが決まったそうだ」
紙片には、こう書いてあった。
『告知
第三回 気 動 車競走会
日時 秋期収穫祭 三日目
於 フェルマット広場
競技方法 全車同時走行による一定距離の往復時間を測定
応募要綱 一工房一台、新設計新造の気動車を用意すること 複数工房の共同は不可
賞 一等の工房には、
国王スプリタル三世による褒賞
王国筆頭気動車工房の称号
諸々の工房、こぞっての応募を期待する
王国収穫祭実行委員』
「今年から、規模がでかくなったんだ。見せてやんな。爺さん、参加するんだろ?」
「ええ、もちろんよ!」
「張り切りすぎて引っ繰り返らなきゃいいがな」
カーバイドとユニッタは、植え込みを回って裏庭へ回った。
「おじいちゃん、競走会の応募用紙をカーバイドさんが……」
声をかけようとして、ユニッタは立ち止まった。蒸気を吹き出している気動車が、弾けるような金色の花房をつけたエニシダのそばに止まっている。その下に、老人が倒れていた。
「おじいちゃん!」
ユニッタは、悲鳴を上げた。
2.
水色の満月が中天高くから見下ろしている。
ブンゼン自家用の気動車、『チャーコールグレイ』で森の中を走りながら、ユニッタはため息をついた。
「おじいちゃんは入院しちゃうし、競走会は出られないし……がっかりしちゃう」
倒れたブンゼンとカーバイドを気動車に乗せてユニッタは町まで走り、医院に駆け込んだ。診断は心臓発作。重いものではなく、療養すれば歩けるようにはなるそうだが、運動したり重いものを持ったりということは禁じられた。とりあえずの措置として、一週間の入院。
ユニッタの家でモービルを作っているのは、ブンゼンただ一人だ。ユニッタはまだ見習い。助手も逃げ出してしまった。競走会に出すモービルを作るのは無理だろう。
「とりあえず、帰ってカーバイドさんのモービルを直さなきゃ……」
シッシュッシュッと力強い間歇音を上げながら、ユニッタのモービルは人が走るぐらいの速度で小道を進んで行く。ユニッタの大好きな機関音だが、それを楽しめる心の状態ではない。
前方の闇を、アセチレンランプの逆三角形の光条が青白く切りぬいている。うちまであと一タラートぐらいかな、と思ったとき、突然、光の中に黒い影がふらふらと現れた。
「きゃあっ!?」
とっさにボイラーから下がっている減圧弁のひもを引っ張り、減速器のペダルを力いっぱい踏み込む。車輪にあてられた減速パッドがギューッと悲鳴を上げ、ユニッタは運転席からほうり出されそうになった。
影が横っとびに避ける。どこか接触したのか、バシッという音がした。
「うわ……やっちゃったあ……」
光の外にはねとんだ影は、確かに人間だった。ユニッタはモービルを止めると、蒸気チョークを閉めてから減速ペダルを固定し、ランプを外して飛び降りた。
テューガ木をくりぬいて作ったランプを闇の中に向ける。人間が倒れていた。
「あの……大丈夫ですか?」
おそるおそる近寄ってみる。黒い、奇妙にぴったりした上衣とズボンを着た、背の高い人間だ。髪は見たこともない小麦のような黄色で、短い。男らしい。
「う……あ……」
「生きてる! よかった……」
しゃがみこんで容体を調べる。血は出ていない。衣服の左手のひじが裂けている。ぶつけたのはそこだけらしい。
「軽いけが……かな」
頭を打っていれば外から見ただけでは分からない障害が出ることがある。だが、男がかぶっている平べったい帽子が、はね飛びもせずきちんと頭に乗っていたので、打ってはいないだろう、とユニッタは判断した。
「もしもし! 聞こえます?」
「……ん……」
「どうしよう……」
町からすでに一〇タラート、半刻は走って来ている。引き返すにしても時刻も遅い。うちまで運んだ方が早い。ユニッタは頭を抱えた。
「んもー、男なんかキライなのに……でも仕方ないか」
腕をつかんで、渾身の力で肩にかつぐ。
「お、重いよー……」
工房での作業に慣れているユニッタも、さすがに大の男を背負うことはできなかった。半ば引きずるようにしてモービルに近づき、悪戦苦闘して荷台に押し上げた。
「ん?」
チャリッ、と涼しい音を立てて何かが地面に転がった。ユニッタはランプの光を下げた。 白い光の輪の中に、美しい透明な色に輝く、見たことのないとがったものが落ちていた。「なんだろ」
ユニッタは首をひねりながら、それをポケットに突っ込んだ。運転席に飛び乗る。
「ようし、行くぞ!」
蒸気チョークを解放、減速器ペダルを上げる。ブシューッ・シュッ・シュッと盛大な排気音を立てながら、モービルは走りだした。
カリカリ、カリカリ、と枕元で音がした。
「うはー……もう朝か」
体を起こして伸びをし、それから枕もとの窓を開ける。見慣れた灰色の小さな塊が、前足をちょこんとそろえて待っていた。
「おはよ、チャコ」
彼の名は「チャーコールグレイ」。近所の森からちょくちょくえさをねだりにやってくる。灰色リスだ。
小皿に用意してあるカボチャの種をだしてやってから、ユニッタはベッドを出た。
「さて、わたしも朝ごはんにすっか……」
そのとき、出し抜けに表からぶわーんとものすごい音が聞こえて来た。
「あの音!?」
ユニッタは作業用の若草色の前掛けをひっつかんで駆け出した。屋根裏部屋からハシゴを滑り降り、木靴をつっかけて工房の扉を開く。
ボイラーを前置き式にした異形のモービルが止まって、弁から蒸気を吹き出していた。後部の運転席で、派手なオレンジ色の職人着を着た若い男が立ち上がった。
「よう、ユニッタ」
「ビズビィ! 何の用よ、朝っぱらから!」
「怒鳴ることねーだろ」
男は、にやついた顔で言った。ユニッタの幼なじみであり、今はフェルマットの町で工房を開いているビスビィである。
「じーさん、ぶっ倒れたんだってな。何かと不便だろうから、手伝いに来てやったぜ」
「そんなこと、何もないわよ!」
「そうかな。背中のボタンは誰が留める? 朝食の味見だってしてやれる」
「寝言言ってんじゃないわよ、 あんたにやってもらうような事は草刈一つだってないわよ!」
「草刈りぐらいならおまえでもできるだろうが、雑貨屋に頼まれた仕事はどうする?」
「……関係ないでしょ」
「ねえけどな。おまえひとりで、きちんとした仕事ができるのか」
ぐっとユニッタは言葉に詰まった。確かにユニッタは、代金を取る仕事をしたことは一度もない。それに対して、相手はフェルマットでも指折りの老舗の後継ぎだ。職人としての腕もある。
「困ってんじゃねえのか。手ェ貸すぜ」
「冗談じゃないわ!」
ユニッタは叫んだ。この男が、ユニッタは大嫌いだった。親切ごかしに恩を売り、それでこっちが喜ぶと思っている。頭から女を馬鹿にしているのだ。
「配管の修理ぐらいできるに決まってるでしょ! ボイラーだっていじれるわよ! できないことなんか何もない!」
「馬鹿いえ、じーさんのケツにくっついて横から邪魔ばっかりしてたくせに」
「邪魔なんかしてないわ、技術を覚えていたのよ! おじいちゃんができることならわたしにだってできるもん!」
「ほー、なら新車作りだってできるんだな?」
「やってみせるわよ!」
ユニッタはかみつくように怒鳴った。
「わたしだけの力で気 動 車を一台作ってやるわ! それで競走会にだって出てやるわよ!」
ユニッタは、工房の中に取って返すと、ホウキをもって飛び出てきた。
「誰があんたの手なんか借りるもんですか。さあ帰れ! さっさと帰ってちょうだい!」
「ばっ、ばかやろう、そんな口きいて、後で泣きついたって知らねえからな!」
悪態をつくと、ビズビィは自分のモービルに飛び乗った。必要以上の空吹かしをして、もうもうと蒸気を吹き出して帰って行く。
後に残されたユニッタは、やがてぱたりとホウキを落とした。
「どうしよ……すごいこと言っちゃったよ」
とぼとぼ家の中に戻る。
「できっこないのに……でも、あいつに謝るのは死んでもごめんだしなあ……」
まったく男ってのは、とぶつぶつ呟きながら家に入ったユニッタは、はたと気づいた。
「男と言えば――そうだ、忘れてた!」
あわてて台所を走り抜けて、ブンゼンの部屋に向かう。そこに、昨日ひろってきた行き倒れの男を寝かせてあるのだ。昨日は疲れていたので、ブンゼンのベッドに彼をほうり込んだまま、寝てしまった。
「大丈夫!?」
バン、とドアを開ける。書棚や書き物机に囲まれたベッドは――空っぽだった。
「あれ……」
奥の車庫へのドアが開いている。修理を頼まれたモービルやできあがったモービルを止めておく場所だ。
おそるおそる、ユニッタは扉のむこうをのぞいた。
男がいた。昨日からほったらかしのカーバイドのモービルの前に立って、何かつぶやいている。
「これは蒸気機関か……原始的な動力のわりに構造は洗練されてるな……しかし、全体が木製……?」
「あ、あのっ!」
弾かれたように男は振り向いた。見上げるような長身、不思議な明るい色の髪、白い肌、そして、見開かれた瞳は、夏の空より青いきれいなブルーだった。
「触らないで。お客さんのだから……」
「客……? いや、君!」
男は突然近寄ってくると、ユニッタの肩をつかんだ。目が輝いている。
「言葉が通じる!」
「は……?」
「封印されたときはどこへ放り出されるかと思ったが……同じ文明圏にたどり着けたのか! なんてこった、俺は大当たりを引いたみたいだな!」
「あの……何を言ってるんですか?」
「何って? 喜んでるんだよ! 分かるだろう? ここはどこだ、ネーデルランドか? ベルギーか? はは、なんだ君の格好は。まるで風車小屋の花摘み娘みたいじゃないか!」
狂ったように喜ぶ男に振り回されて、ユニッタは目を回してしまった。
第二章 ジーベルマン
1.
「スプリタリカ?」
「そう。そのフェルマットの町の、町外れ」
「で、何をしてるって?」
「気 動 車を作ってるの」
「君がねえ」
男は、小柄なユニッタを驚いたように見た。ユニッタは声を上げかけた。
「女が工作して、悪い――」
「すごいなあ」
心から感心している眼差しだった。ユニッタは叫びを呑み込んだ。
「……からかう気?」
「どうして? こんな大きな機械をその細い腕で組んじゃうんだろ? すごい能力だよ」
「……やめてよ」
女に世辞を言うなんて変な人、と思いながらユニッタは顔をそらした。道の前方だけを注視する。
フェルマットの町へ続く林道である。『チャーコールグレイ』に奇妙な男を乗せて、ユニッタは町へ向かっていた。
入院したブンゼンに身のまわりの物を届けなければいけないし、カーバイドに工期を延ばしてもらうよう、頼まなければいけない。食料品や細々したものを買い出しに行く用もある。それやこれやで、あれこれ質問してくる男の面倒を見ているひまがなく、連れて行くことにしたのだ。
「その……町では、こういう自動車はたくさん走っているの?」
「気動車。そうね、町中で五〇台ぐらいかな」
「少ないね」
「そう? フェルマットは、国で二番目にモービルが多い町なのよ。一番はお城があるスプライトの町だけど」
「高いからそんなに少ないの?」
「一台一万リンガもするから、そりゃ安くはないわ。でも、本当に必要な人は買ってくれる。たくさんのものを運ぶ人と、重いものを運ぶ人――雑貨屋さんとか建材屋さんなんかが使ってくれてるわ」
「運送屋、って業種はないのかな」
よく理解できずにユニッタは男の顔を見た。
「運送屋?」
「つまりさ、町から町へ交易して歩く商人たちだよ。ほかにも町はあるんだろう?」
「ああ、キャラバンのことね。あるけど、駄目よ」
ユニッタは肩をすくめた。
「モービルは石炭と水を使うから。長距離の移動には向かないわ。キャラバンはアルパカを使ってる。町の中では牛ね」
「……都市圏専用の重量物輸送コミューターって位置づけだな」
「え?」
「いや、なんでもない」
出掛ける前の朝食の席で、ユニッタに付きまとって、この男はわけの分からないことをいろいろ聞いてきた。「U・Nはどうなった」とか、「ADいくつだ」とか。ユニッタが聞き返すたびに、なんでもない、と言葉を濁していた。だから、ユニッタはもう気にしないことにしていた。
ただ、ひとつだけ、聞いておかなければいけないことがあった。
「あなた、名前は?」
「名前?」
何か考え込んでいた男は、びっくりしたように振り返った。
「言ってなかったか?」
「あなた、自分のことはなにひとつ言ってないわよ。聞くばっかりで」
「そうか、ごめん。僕はジー=ベルマン」
「ジーベルマンね。わたしはユニッタ」
一つだけだが、男のことが分かった。ユニッタは少し、安心した。
2.
「お待たせ」
カーバイドの店で生活用品を買ってモービルに戻ってきたユニッタは、客席にジーベルマンがいないことに気づいた。
「あれ……どこ行っちゃったんだろ」
辺りを見回す。
フェルマットの町中である。気動車や牛車がなんとかすれ違える、幅五タージほどの道路の両脇に、元から生えていた木をうまく柱や梁がわりに利用した家々が並んでいる。
ちょうどお昼時で、みんな家で食事をしているらしく、人通りは少ない。
ユニッタがそこらを見て回っていると、向こうからジーベルマンが歩いてきた。辺りのものが珍しいのかきょろきょろしているが、あの身長にあの髪の色にあの衣服である。当人の方がよっぽど珍しく、通りがかる人々の視線を集めてしまっている。
「ちょっと、ジーベルマン!」
「やあ、ユニッタ」
「やあじゃないわよ、あんまりうろうろしないで。迷子になっちゃうでしょ」
「迷子になる年じゃないよ」
そばまでやってきて、ジーベルマンは苦笑した。荷台の買い物袋に目を留める。
「おいしそうだね」
「クプリ、好き?」
黒曜石の色をした透き通った果実を、ユニッタはジーベルマンに渡した。
「おひとつ、どうぞ」
「ありがとう」
歯を立てたとたん、ジーベルマンの動きが止まった。口先にしわを寄せる。
「……これ、ちょっと早いんじゃないか?」
「ジャムにするやつだからね。普通、生で食べる人はいないわ」
ユニッタは、疑わしそうに顔を近づけた。
「あなた、この国の人間じゃないわね」
「……そうかな?」
「とぼけても駄目よ。よそから来たんでしょ。いいかげん話してくれない? この国へ何しに来たの?」
「話すと長くなる……いや、多分理解してもらえない」
ジーベルマンは、難しい顔で首を振った。
「分かりやすく言おう。僕は迷子だ。さっきの言葉は撤回」
「迷子?」
「ここがどこだか分からない。今そこらを見回って分かった。この国は僕が聞いたこともない国だ」
「じゃ、どうやって来たの?」
「事故でね」
ジーベルマンは、ぽつりと言った。
「気絶しているうちにここまで運ばれた。これだけは分かる。多分、僕は……生まれた所には帰れない」
最後の一言は、自分に言い聞かせているようだった。悄然とした面持ちである。
男は嫌いだが、明るい人柄に打ち解けかけていただけに、彼の言うことは気になった。「つまり――あなたは誰かにさらわれて来たの? それとも、追放されたとか……?」
言ってから、自分の恐ろしい想像に身震いして、後退りする。
ユニッタのおびえた表情に気が付いて、ジーベルマンは頭をかいた。
「そんな目で見ないでくれ。別に僕は犯罪者じゃないし、おかしな事件にかかわってもいない。君に迷惑はかけないよ。助けてくれた恩人だしね」
ユニッタは警戒の表情を解かない。ジーベルマンは肩をすくめた。
「仕方ない。――ここで君とは別れよう。なんとか、生きて行く道を探すよ。ありがとう。いろいろ教えてくれて」
「え、ちょっと……」
その背がさびしそうに見えて、思わず呼び止めようとしたとき。
「おう、ユニッタじゃねえか」
背後から声をかけられた。
振り返ると、カナリア色の作業着を着た一団の男たちが歩いてきた。先頭はビスビィだ。彼の工房の職人たちを連れている。昼食でも食べに行くところなのだろう。
「誰だよ、そいつは」
「別に……誰でもいいでしょ」
「よくねえな」
ビズビィの合図で、職人たちがジーベルマンを取り囲んだ。いずれも二十歳前後の、力がありあまっている男たちである。
「見たところよそ者のようだな。どこの町から来た? ここで何をしてる」
「関係ないでしょ、フェルマットはどんな人間でも出入り自由の町よ。あんたたちに咎め立てする権利があるの?」
「身分がはっきりしていれば、そりゃ問題はないさ」
ビズビィは、ジーベルマンのつま先から頭のてっぺんまで睨みつけるように見た。
メッセンジャー
「しかし、見たところ行商人でも駅逓走者でもなさそうだ。よその町へ潜り込んでは、かっぱらいや置き引きをして、次の町へ高飛びする小悪党もいるっていうしな」
「その人はそんなんじゃないわ!」
ユニッタは思わず叫んだ。すかさずビズビィが詰め寄ってくる。
「じゃあ誰なんだ、何者だ? 教えろよ」
「その人は――」
ユニッタはその時、自分が会ったばかりのジーベルマンをかばおうとしているのに気づいて、ちょっと驚いた。得体の知れない人物で、しかもユニッタの大嫌いな男なのだ。なのに、どうして。
ほめられたからだろうか。この町の人間は、女は家にこもって料理や子守をするものだと思っている。男だけではない。自分と同じ女たちもそう思っている。
ユニッタのように手に職をつけようとする女は珍しい。祖父のブンゼン以外の人間に仕事をほめられたのは初めてだった。
確信が得られないまま、ユニッタは言っていた。
「その人は、うちの新しい助手よ」
「助手?」
「おじいちゃんのつてでスプライトの町から来てもらったのよ! あんたなんか足元にも及ばないすごい職人なんだから。見てなさい、あんたたちがひっくり返って驚くようなすごいモービルを作ってやるから!」
「ふん……じゃあ、自力でやるってのは嘘だったんだな」
思わぬ所を突かれて、ユニッタは言葉に詰まった。
そこへ、成り行きを読み取ったのか、ジーベルマンが助け舟を出した。
「僕はただのアドバイザーだ。彼女のおじいさんに言われていてね。口は出しても手を出すな、とさ」
後ろ半分に、ビズビィに対する牽制が入っている。ユニッタは気づかなかったが、ビズビィはそれを敏感に受け止めたようだ。
「ちっ。――せいぜいその女に蹴り出されないようにするんだな。物好きめ」
土を蹴って、ビズビィは立ち去った。男たちが、うさんくさそうにジーベルマンを睨んでから、後に続く。
「余計なお世話だったかな?」
「いえ、ありがとう。助かったわ」
ユニッタは、素直に頭を下げた。ジーベルマンはちょっとかゆそうな顔で突っ立っていたが、後ろを見てビズビィたちが角を曲がったのを確かめると、手を挙げた。
「じゃ、化けの皮がはがれないうちに退散するよ」
「待って」
ユニッタは、ジーベルマンの袖をつかんだ。決心していた。
「うちに来てよ」
「……いいのかい」
「行くとこないんでしょ。それに、今あなたがいなくなったら、後でばれちゃう。なにも仕事を手伝えなんて言わない。見てるだけでいいから、うちにいて」
「……そういうことなら」
ジーベルマンは、右手を差し出した。
「よろしく」
ユニッタがその手を握り返すと、不意にジーベルマンが顔を寄せた。
「今の話だけどね」
ジーベルマンは、ちょっと得意げに言った。
「せっかくだから、少しばかり手伝おう。カカシよりは役に立つと思うよ」
2.
役に立つどころではなかった。
「この送水管は太すぎるな。径を半分にして、本数を四本に」
「精度が低い。これで計ってごらん。ノギスって言う道具だ」
「構造は可能な限りシンプルに。ないものは壊れない」
「接続がゆるすぎる! 一番応力がかかるのは接合部なんだ。そこを強化して」
「ここはもっと細いアームで十分だ。削れるところは削って軽くした方がいい」
間違いを叱り飛ばされ、命令口調で言われて、ユニッタは当然かんしゃくを起こした。
「うるさいわね、そんなにがみがみ言わないでよ! あなた何様なの?」
「間違ってたら反論すればいい」
毛ほども動じず、ジーベルマンは言った。
「でも、ただの文句ならやめてくれ。僕は間違ったことを言ってるか?」
言われてみると、確かに彼の言うとおりなのだった。連れてくるんじゃなかったと後悔しつつ、しぶしぶ、ユニッタは彼の言い分に従った。
最初の一日は、カーバイドのモービルを練習台に、ユニッタが作業の要領をジーベルマンに教えるはずだった。だが、送気管一本取り替えるのにユニッタが悪戦苦闘しているうちに彼の方が手順を呑み込んでしまい、主従が逆転したのだ。
ジーベルマンの提案で、カーバイドのモービルを、ユニッタの練習台として徹底的に改造することになった。そのころにはすでに彼の能力がユニッタにも分かっていたから、不承不承、承諾した。
それにしても、彼が技術のあることをかさに着て威張り散らすような人間だったら、ユニッタも従うことはなかっただろう。彼は、ユニッタの間違いを発見しても、それをあげつらって勝ち誇るようなことはなかった。ただ淡々と、その問題点と解決策を提示するだけだ。口を出すだけで一切手を出そうとしないその態度は、ユニッタにも納得して受け入れられるものだった。
出される指示は、微細にわたり、彼がただ者ではないことを印象付けた。ユニッタが聞いたこともないような知識や概念を示し、時には工作道具や計測器具まで自作してしまう。ブンゼンが書いた覚書ていどの部品絵図を、方眼紙を作って精密な設計図に書き換え、部品の合わせと頑丈さの計算までしてしまう。
わずか五日間で、カーバイドのモービルは生まれ変わった。出力が今までの一倍半、重さは八割。細かい改良は数知れない。その作業を終えたときには、ユニッタはやや、ジーベルマンを見なおしていた。横から短い指示を出すだけで、自分にこんな仕事をさせてしまったのだ。
一週間目に、ユニッタは町にカーバイドのモービルを届け、ブンゼンを迎えに行った。老人は作業の成果をみるなり、あんぐりと口を開けて言ったものだった。
「はてさて、わしには十人の孫がいたのだったかな?」
以前のユニッタが十人かかっても成し遂げられなかったような作業が完了していたのだ。
そのあと、ユニッタはブンゼンを連れて帰り、ジーベルマンと引き合わせ、祖父の知らないうちに独り身の、しかもよそ者の男をうちに入れてしまったことを謝った。
「ジー=ベルマンと申します。お孫さんのお手伝いをさせて頂きました。お叱りを受けるようなことは、しなかったつもりです」
ジーベルマンが、礼儀正しく頭を下げた。
ブンゼンは、この不思議な客を、穴が空くほどじろじろと眺めまわしていたが、不意に彼が持っていた設計図をつまみ取って、一瞥して言った。
「シリンダーへの送気管内の蒸気圧力の限界値は?」
「標準の四タズ管で、定格出力運転時に二〇アトム――いえ、一五二〇ジットです」
「ピストンが毎分一五〇〇行程往復しているとき、車輪は何回転する?」
「二五〇回転」
「蒸気発生管を細くして数を増やしたわけは?」
「水の単位体積あたりの受熱量を増やして熱効率を上げるためです」
「ユニッタの部屋には入ったか?」
「え? いえ、一度も。代わりにあなたの部屋を使わせてもらっていました」
「よし」
ブンゼンの顔がほころんだ。
「居候、してよし。とんでもない男じゃな」
「あ……ありがとうございます」
ジーベルマンが苦笑しながら頭を下げた。ユニッタが口を尖らせて言う。
「変なことをするような男だったら、たたき出してたわよ」
「まともな男なら妙な気を起こすはずじゃ。それとも、わしの孫には魅力がないか?」
「はあ、それは……」
ジーベルマンは赤くなってもごもご言った。なにさ、猫かぶって、とユニッタがすねを蹴飛ばす。
「ひとつ聞きたいが」
「なんでしょう」
「テューガ木の燃焼温度を知っておるか」
「それは」
ジーベルマンが、初めて言葉に詰まった。ブンゼンがにやりと笑った。
「テューガの木は燃えないと言われておる。だがわしは昔、陶器を作る窯を使って試したことがある。白粘土が溶ける温度でテューガは燃えるのじゃ」
「はい」
「テューガの蒸気発生管はあまり細くすると、燃える恐れがあるのでな。――明日にでもカーバイドのところへ行って、モービルを回収してこい。もとの管に取り替えるんじゃ」
「す、すいません!」
ジーベルマンが頭を下げた。ブンゼンは、怒らなかった。
「それ以外は問題ない。気にせんことじゃな。新しい試みを恐れずやってみるのは、職人の大切な資質の一つじゃ」
「はい!」
ジーベルマンが唇をかんでいた。悔しそうだったが、その目は新しい知識を得た喜びに輝いていた。
ユニッタは、男のそんな顔を見たことがなかった。すてきな顔だ、と思った。
黒ふくろうがほうほうと鳴き交わしている。
夜半、物音に目覚めたユニッタは、夜着を引っかけてハシゴを降りた。
工房の片隅の机にランプが灯っていた。ジーベルマンが本を読んでいる。
ユニッタは、そっとそのそばに立った。
「何してるの?」
「ああ、ごめん、起こしちゃったか」
ジーベルマンが見ていたのは、『スプリタリカ植物大全』だった。
「園芸でもするの?」
「いや、テューガの木について調べていたんだ」
ジーベルマンが穏やかに言った。
この一週間、働きづめで、彼とゆっくり話すことはなかった。いい機会だ、とユニッタは思った。手を伸ばして本を閉じる。
「わたしが説明してあげる」
「そう?」
ジーベルマンは、そばの椅子を引き寄せた。ユニッタは腰掛けて、言った。
「テューガの木は、わたしたちの生活を支える大事な木よ。成長の速い真っすぐな木で、幹の中も枝も空洞になっている。堅く、極めて火に強く、そのくせ熱をよく通す。台所の
おナベから気 動 車の部品にまで、いろいろなところに使われているわ」
「どうしてそんな木があるんだろうね」
「フェルマットの町が拓かれたとき、みんなで植えたからだって。五〇年も前の話よ。この町の周りにはテューガの林があちこちにあるの。だから、この町は国中でも有数のモービルの町になったの」
「そうだったのか。いや、僕が聞きたいことはちょっと違ってね……」
ジーベルマンは、遠くを見るようなまなざしで言った。
「この町では、すべてのものが、木と石と土と草からできている。文字通り、家の中のもの、家の外のものすべてがね」
「そうよ、それが?」
ユニッタは不思議そうに聞いた。
「あたりまえじゃないの」
「スプリタリカの他の木々は、僕も知っているものなんだ。楡、杉、カエデ、ケヤキ。テューガだけを知らない」
「知らないって……あなたの国にはなかったの?」
「ああ」
「じゃ、どうやっておナベや水パイプや送気管を作っていたの? テューガがなかったら、なんにもできないじゃない」
「できたんだ。他のものを使って」
「ほかのもの……」
ユニッタは、ふと、あるもののことを思い出した。ジーベルマンを道で助けたときに拾った不思議なものだ。
ユニッタはポケットからそれを出した。そのとがったものは、アセチレンランプの光を受けて、一等星のように燦然と輝いた。
「……これのこと?」
「それは僕のナイフだ。拾っていてくれたんだね。ありがとう」
ジーベルマンはそれを手に取った。
「これは鋼というものでできている。ユニッタ、君たちが使っている黒曜石や石英を削って作った石刀とは、根本的に違うものだ」
ジーベルマンは机においてあったペンをとった。指で挟み、垂直にぶら下げる。
「いいかい?」
ジーベルマンがそれを放しざま、ナイフを真横に振った。カキッ、と乾いた音がして、ペンは床に落ちた。テューガ木の軸が、二つに両断されていた。
ユニッタはそれを拾って、声もなく見つめた。断面は磨いたように滑らかだった。
「すごい……」
「なぜ、このナイフのような物質がないんだろうね」
「……分からない」
ユニッタは、顔を上げた。目の前の男が、自分とはまったく別の人間に思えた。
「あなたは誰なの? モービルについて呆れるほどいろんなことを知っているくせに、テューガについては赤ん坊のように何も知らない。そして不思議なナイフを持っている」
「僕はもう帰れない。教える意味は、この世界にはないよ」
ジーベルマンはそう答え、ユニッタの肩をたたいた。
「もう寝るよ。君もおやすみ」
「……ええ」
なぜかさみしさのようなものを感じつつ、ユニッタはジーベルマンから離れた。
3.
季節は春から夏に移る。
森の緑が濃くなった。無数の新芽が成長を終えて立派な葉となり、風が吹くたびに壮大なホワイトノイズを奏でている。
恋の季節を迎えた小動物たちが、夜ごと小さな宴を開く。ユニッタの窓辺から、小さな友達の姿が消えた。気の合う女の子を見つけて、新しい住まいを作るのに夢中なのだろう。 ユニッタたちの仕事も、順調に進んでいた。
ブンゼンが見繕ってきた、ボイラー釜用のふたかかえもある大きなテューガ木を始めと
して、大小さまざまなテューガの部品が工房の床に散らばった。気 動 車の部品は、ほとんどが径と長さの異なるテューガなのだ。
釜で石炭を燃やして火を起こし、その熱でボイラーを走る蒸気発生管の中を流れる水を気化させる。高圧の蒸気を送気管でシリンダーに導き、ピストンを往復運動させる。コンロッドとクランクを介して、ピストンの往復運動はシャフトの回転運動に変えられる。シャフトの回転が革のベルトで車軸に伝えられ、車輪を回す。
それが、気 動 車の構造だ。そのほとんどが管からできていると言っていい。
いつも通りに、修理や新造の仕事をこなすブンゼンのかたわらで、ジーベルマンとユニッタは協力して新しいモービルを作り上げて行った。広くもない工房は二台分のモービルの部品で足の踏み場もない。
工房の片隅に置かれたジーベルマンのベッドは、何本ものテューガ管や石ゴテや木づちに埋もれてしまっていて、寝るときには布団ではなくその中にもぐりこんで寝ている。夏だからいいけど、とジーベルマンは笑った。冬にはこういうごちゃごちゃした道具のベッドじゃなくて、ちゃんとした綿の布団で眠りたいな。
いつのまにか、ユニッタは彼のそんな冗談にも笑えるようになった。
ジーベルマンの鋭く的確な指示と、経験に裏打ちされたブンゼンの説得力のある助言を受けて、ユニッタの作業も徐々にてきぱきとしたものになってきた。
森から吹いてくる風は涼しかったが、狭い工房にはそれほど吹き込んでこない。夏の間、ユニッタたちは汗だくで作業を続けた。きれいだった若草色の前掛けも、木屑やほこりにまみれておかしな茶色に変色してしまった。
ジーベルマンはユニッタが新調した、ブンゼンと同じえび茶色の革の前掛けをしていたが、ある日ユニッタが手を滑らせて石ノミを振り下ろしてしまい、その前掛けに鉤裂きを作ってしまった。おまけに石ノミはジーベルマンの腕まで傷つけてしまい、鮮血が床にしたたった。
「ご、ごめんなさい!」
ユニッタは真っ青になってジーベルマンの手を取った。手近に水がなかったのでとりあえず傷口をなめてから、作業中はいつもかぶっているシャッポをぬいでその腕に巻き付けた。
「大丈夫? 痛くない?」
聞きながらのぞいた顔が、なぜか真っ赤だった。ジーベルマンは、妙に小さな声で、「あ、ありがとう」と言った。
「そんなに痛いの?」
「いや……なめてくれるなんて思わなかったから……」
ユニッタはとっさに自分がしてしまったことに気づいて、同じように赤くなった。でも、それは傷に対する手当としては普通のことなのだ。
「動物たちも、よくやるでしょ」
「親子や、仲のいいつがいがね」
言ってからジーベルマンは、しまった、というように顔をそらした。ユニッタも気恥ずかしくて、傷に目を落とした。
「血、赤いのね」
「え? ああ」
「わたしと同じ」
ユニッタは、ジーベルマンに笑った。
「あなたはお客じゃない。わたしたちの家族よ」
「ありがとう」
ジーベルマンは、ほほ笑んだ。
季節が移って行く。
フューッ、フューッ、と言う声が森の中から聞こえてくる。伴侶を求める雄鹿の声だ。
風が涼しくなった。キノコや山菜、クプルやアケビ、ベリーやスグリ。森の幸が実り始めるころだ。
秋。収穫祭が近い。
夏のあいだ開け放していた窓を、初めて閉めた夜、ユニッタのモービルは完成した。
「できた……」
工房の真ん中に、新しいモービルが堂々と鎮座していた。太鼓を十倍にしたような巨大なボイラーも、肉抜きした精悍なコンロッドも、車台からシリンダーへ幾何学模様のような矩形を描いてつながる二本の送気管も、どこからどこまですべてユニッタが一生懸命、手でこつこつと加工して作った部品でできている。眺めているうち、涙が湧いた。
「できたよ、おじいちゃん。ジーベルマン……」
「よく頑張ったなあ」
ブンゼンが、後ろからユニッタの細い肩を抱き締めた。
「初挑戦で丸まる一台自作するなんて言い出したときには、どうなることかと思ったが……こんな立派な代物が完成するとは思わなんだ」
「うれしい……すごくうれしい」
ユニッタは、顔を押さえて嗚咽した。その肩にジーベルマンが手を置いた。
「素晴らしいできあがりだよ」
「ありがとう、ジーベルマン」
「僕は横から余計な事を言ってただけだ」
言いながらも、ジーベルマンの目はうるんでいる。
「おめでとう、ユニッタ」
「ようし、今夜はお祝いじゃ! 秘蔵の一五年ものを開けてやる。ぶっつぶれるまで飲むから、覚悟するんじゃぞ!」
「だめよ、おじいちゃん心臓が悪いのに」
ブンゼンとジーベルマンは、顔を見合わせて笑い崩れた。
「いいじゃないか、今夜ぐらいは」「そうじゃそうじゃ。今夜死ぬならわしも本望じゃて!」
「……もう、二人とも……!」
涙でくしゃくしゃになった顔で、ユニッタは二人の胸に飛び込んだ。
だが――
翌朝近く、ユニッタはただならぬ物音を聞いて、目を覚ました。
音は車庫からのようだ。何かをぶつける音、何かをたたく音。何かを引きはがす音。
何かが壊される音。
ユニッタは跳ね起きて窓を開いた。まだ暗い裏庭を、車庫から出てきた数人の人影がばらばらと逃げて行った。
酔いがいっぺんに吹き飛んだ。「ジーベルマン、おじいちゃん!」叫びながらユニッタはハシゴを滑り降り、車庫に飛び込んだ。
そして、立ちすくんだ。
そこに木切れや板切れの山があった。これはなんだろう、とユニッタはぼんやり考えた。
「どうした!?」
ジーベルマンとブンゼンが飛び起きてきた。そして、ユニッタの隣で同じように立ちすくんだ。
「なんてことだ……」
がれきの山は、まさに、ユニッタのモービルだった。
「どうして……」
ユニッタは、その場にへたり込んだ。息ができないほど苦しかった。
遠くを、シュンシュンシュンという音が遠ざかって行った。
第三章 エンジン
1.
新鮮な材料で作られた朝食が、テーブルの上で食べられるのを待っている。
それを作ったジーベルマンと、二日酔い気味のブンゼンが、黙然と待っていた。
「起きて来るでしょうか」
「来る」
ブンゼンはきんかん頭を上下させた。
「一度や二度の挫折でへこたれておっては、職人はつとまらん。生まれたときからそう教えておる。これしきのことでくじけるようなヤワな育て方はしとらんわい」
「だといいんですが……」
ジーベルマンが心配そうに天井を見上げたとき、跳ね上げ戸がばたんと開いた。
「おはよう」
ユニッタが下りてきた。ジーベルマンの前を通ってテーブルにつく。口をへの字に曲げて、恨みでもあるようにスープ皿をにらむ。
てっきり、憔悴した悲しそうな顔で現れるものと思っていたジーベルマンは、戸惑いがちに言った。
「おはようユニッタ。……大丈夫か?」
「何が?」
キッとにらみつけられて、ジーベルマンは思わずのけぞった。
「いや、がっかりしてるんじゃないかと思って……」
「したわよ。でも泣いたってなんにもならないでしょ。腹が立って全然眠れなかったから、朝までベッドの中で転がり回ってたの。おかげでおなかぺこぺこ」
しゃもじを握り締めて、だんとテーブルを叩く。
「早く食べましょ! 急いで作業にかかって、新しいモービルを作らなきゃ、収穫祭に間に合わないじゃない!」
どうだ、というようにブンゼンがジーベルマンを見た。ジーベルマンは、軽く笑って席に着いた。
「それじゃ、いただきます」
「いただきます!」
石ノミで部品の削るときのような勢いで、ユニッタはスープをかき込み始めた。
だが、新しい問題が発生した。
森へ出たブンゼンが、難しい顔で帰ってきて、こう言ったのだ。
「ユニッタ、おかしなことになったぞ」
「どうしたの?」
「ボイラーを作るのに必要な八〇タズ以上の太さのテューガが、一本も余っとらん」
「……なにそれ」
ブンゼンは黙って木札を差し出した。ユニッタはそれを見て眉をひそめた。
「売約済み?」
「森林組合の札じゃ。どの森のどの木にも、その札がかかっておった。一抱えていどのものならいくつか見つけたんじゃが」
「……じゃあ、組合まで行って掛け合って来るわ」
だが、町へ行って帰って来たユニッタの表情は、暗かった。
「どうだった?」
迎えに出たジーベルマンに、ユニッタは黙って首を振った。
「だめ。もう受け渡しの相手も決まってて、お金も受け取ってるんだって」
「じゃあ、もう一度森へ行って、テューガを探すしかないな」
「無理よ」
モービルから下りたユニッタは、ふらふらと工房へ入って来て所在無げに立ちすくんだ。「言ったでしょ、テューガは植林された木だから、組合が管理している森にしか生えていないのよ」
「それじゃあ……」
「あいつよ! ビズビィの仕業に決まってるわ!」
ユニッタはそばに置いてあったバケツを思い切り蹴飛ばした。派手な音ともに入れてあった小道具やくさびが飛び散る。
「なんて汚いやつなの! わたしに負けるのがいやだからって、こんな手まで使うなんて」「彼の仕業と決まったわけじゃない」
「根こそぎテューガを押さえるなんてまねは、あいつにしかできないわ! あいつの家は組合の役員をやっているもの!」
ユニッタは立ち上がって、めったやたらにそこらのものを叩き始めた。テューガの細管を叩き折り、ペン立てを弾きとばす。ジーベルマンはその背に回って、羽交い締めにした。「落ち着けよ! まだ作業ができなくなったわけじゃないだろう。うちの在庫で一番大きいテューガを使えば、なんとか……」
「ボイラーの大きさはそのまま出力に直結しているのよ。間に合わせのテューガで作ったって競走会には勝てっこない。あなただって分かってるでしょ!」
「そんなことを言っても……」
「負けたのよ! わたしはもうあいつに負けてるの! 新しいモービルは作れないし、競走会には出れないの!」
「ユニッタ!」
「もうどうでもいいわ!」
ジーベルマンの腕を振りほどくと、ユニッタは工房を駆け出して行った。後に残されたジーベルマンのところに、ブンゼンが頭をかきながらやって来る。
「大丈夫だと思っていたんだがなあ。我慢の緒が切れてしまったか」
「そりゃそうでしょう。半年間の苦労を水の泡にされたんだから、たった一晩で立ち直れるわけがない。相当こたえていたと思いますよ。そこにこの仕打ちだ」
ジーベルマンは、険しい顔で言った。
「多分、昨夜のやつらもビズビィたちでしょう。なんとかならないんですか? 訴えるとか」
「証拠がなにもない。それに、お城に訴えてもユニッタのモービルは直らんよ」
「まったくひどいやつだ! いったいユニッタにどんな恨みがあるっていうんだ?」
「恨みではない」
ブンゼンは、複雑な顔で椅子に腰掛けた。
「メンツじゃな。あんたは知らんようだが、この国の男どもは女に負けるのを大変な屈辱だと思っておる。あんたのように娘ごを立ててやる男は、珍しいぐらいじゃ」
「正々堂々と勝負して勝ってこそのメンツでしょう! こんなことをして勝って満足するんですか?」
「負けるよりはマシと思ったんじゃろうな。ふん、しかしあいつもやり過ぎなんじゃ」
ユニッタが散らかした机の上を片付けながら、ブンゼンは言った。
「部品作りでもやらせて、忘れさせるか。今年は無理にしても来年また機会があるんじゃからな」
「いや、手はあります」
「ん?」
ブンゼンは振り向いた。ジーベルマンはもう出て行っていた。
工房の裏手をちょっと入ると、小さな沢があって、森の奥から小川が流れてきている。
あたりの空気はひんやりとして湿っている。夏の間は、工房での作業の息抜きによく訪れたが、今ではもう肌寒く、長居したい場所ではない。
苔に覆われた川べりのところどころに点々と岩が飛び出している。ユニッタはその岩の一つに腰掛けてせせらぎを眺めていた。体が冷えていたが、工房には戻りたくなかった。
「ユニッタ」
背後にジーベルマンがやって来たのが分かったが、ユニッタは振り向かなかった。
「風邪を引くよ」
「いいわよ、別に。寝てりゃ治るもの」
「寝てたら作業ができないだろう」
ユニッタは、振り向いて、皮肉な顔で言った。
「何の作業? やることなんかもうないわ」
「新しいモービルを作る作業だ」
「できっこない。慰めになってないわね」
「できるよ」
ジーベルマンは、ユニッタの隣に腰を下ろした。
「少し、僕の話をしよう」
ユニッタの返事を待たず、ジーベルマンは言った。
「今まで、僕が何者か、どこから来たのか、ということは話さなかったね。それをまず謝っておく。僕は、故意に隠していた。ごめん」
ジーベルマンが頭を下げた。「……それで?」と気のない様子でユニッタは言った。
「隠していたわけを話そう。長くなるが、聞いてくれるね」
「……いいわ」
「君も気づいていると思うが、僕は元いた世界でも、気動車のようなものを作っていた。この国へ来て君に助けられたのは偶然だろうが、実はあのころ、僕はけっこう悩んでいたんだ。こんな遠くの世界へ来てまで、まだ以前と同じ仕事をしなければならないのか。皮肉な偶然もあったもんだ、とね」
「あなた、仕事が嫌だったの?」
ユニッタは不思議に思って聞いた。
「あんなに楽しそうにモービルを作っていたのに」
「機械をいじるのは、そりゃ好きだよ」
ジーベルマンはうなずいた。
「でも、前の世界では、僕はその仕事にほとほと嫌気が差していたんだ。というのも、前の世界では、モービルが世界そのものを脅かすような恐ろしい道具だったからだ」
ジーベルマンは、寂しそうな顔で言った。
「向こうのモービルはこちらのものとは全く違う。僕らが作っていたモービルは、こちらの十倍も大きくて、一度に五〇人の人間を運び、何百タラートも走り、速度は音のそれを越えるものすらあった。数も多く、一つの町に何千台というモービルが走り回っていた。想像してごらん? 一千台のモービルが一本の街道にひしめき合って、ものすごい速度で走り回りながら蒸気と煙を撒き散らしているありさまを」
ユニッタは、その様子を頭に思い浮かべようとしたが、できなかった。去年の競走会のとき、広場に一五台のモービルが集まったが、それがユニッタがいっぺんに見た、もっともたくさんのモービルの集団だったからだ。
「そんなにたくさんのモービルが走っていたら、人間はどこを歩くの?」
「もちろん同じ道をだよ」
「危ないじゃない!」
「ああ。一年に何万人もの人たちが、モービルにひかれて死んでいた。それだけじゃなく、モービルが吐く煙を肺に吸い込んで、その十倍もの人たちが病気になった。モービルに土地を奪われて、住む家を追い出された人たちもいた。壊れたモービルをおく場所がなくなって、あちこちにその残骸が山のように積まれていた」
ユニッタは、唖然としてその話を聞いていた。
「そんなひどいところで暮らしていたの……? モービルを減らせばよかったじゃない」
「ところが、そのモービルたちは、人々が生きて行くのに必要な食べ物や品物を遠くから運んでくる乗り物だったんだ。町にはフェルマットの百倍もの数の人たちが住んでいる。モービルなしでは、彼らは三日として生きていられなかった。だから、そんなにひどいことになりながらも、モービルを減らそうという働きは行われなかったんだ」
「……」
声もなく、ユニッタは聞いていた。
「僕は、そのモービルを作る仕事をしていた。だけどある日、ついに耐えられなくなったんだ。仕事をやめて、モービルをなくすよう、みんなに話して回った」
「それで、どうなったの?」
「ご覧のとおりだよ」
ジーベルマンは、肩をすくめた。
「世間を騒がす危険な人間として、捕まって閉じ込められ、追放された。二度と帰って来られないような遠くにね」
「ひどい……」
ユニッタは、口元を押さえた。
「それで、モービルが嫌いになったの?」
「それが、もって生まれた性分は押さえられなくてね」
ジーベルマンは、口元を歪めて笑った。
「君のモービルを見たとき、反射的に思ってしまった。ああ、こいつをいじりたいってね。だけど、この美しいスプリタリカが、前にいたところのように排気ガスと産業ゴミに埋もれた灰色の世界になってしまうのは、耐えられなかった。だから、君に対して、黙っていたわけさ」
ジーベルマンは、ゆっくりと顔をユニッタに向けた。
「まったく新しい動力源――『エンジン』のことをね」
「……エンジン?」
ユニッタは、初めて聞くその単語を、舌の上で転がした。
「エンジン……」
「ユニッタ、エンジンを作れ」
ジーベルマンは、きっぱりと言った。
「君なら作れる。君なら、その正しい使い方を身につけてくれるだろう。世界を脅かすような方向にではなく、世界をより美しく、豊かにするようにね」
「……それは、この世界でも作れるの?」
「テューガを使えばできる。今ある細いテューガだけでね。君にその作り方を教えてあげよう」
「ジーベルマン……」
ユニッタは、ジーベルマンの肩に額をつけた。
「いいの? それであなたは」
「いいさ。君を信用している」
「わかったわ」
ユニッタは、ふっ切れた顔で立ち上がった。
「わたし、エンジンを作るわ!」
2.
「これは……」
ジーベルマンが描いた設計図を前にして、ブンゼンとユニッタは絶句した。
「車輪と車軸、車台、席、伝達機構、減速器と舵は、気 動 車のものを流用できる。最大の違いは、パワーソースそのものだ。僕が考えた限り、テューガでなんとかなるはずだが……」
ジーベルマンは、ぼうぜんとしている二人に聞いた。
「何か、疑問でも?」
「こんな小さなもので、本当にあの大きな車体を駆動できるの?」
信じられない、と言うようにユニッタが言った。ジーベルマンは苦笑した。
「エンジンとしては、かなり大きなものだよ。総排気量六リッター。三リッターOHVのシリンダーを二つ。重量面から考えたら、小型で高回転のものを作った方が効率はいいんだが、テューガの耐圧性と、初めてで精度が期待できないことを考えたら、圧縮率の低い大きめのものを作るほうが無難だと思う」
二人は、ぽかんとした顔で黙っている。ジーベルマンは苦笑した。
「順番に話そう。エンジンの最大の要点は、シリンダーの中で燃料を爆発させることにある」
「爆発?」
ブンゼンがぶるっと顔を震わせた。
「とんでもない代物じゃな」
「強度さえしっかり計算しておけば、恐ろしいものではありません」
ジーベルマンは、図の中心を指さした。
「これが、心臓部であるシリンダーだ。気 動 車ではではそこに蒸気を送り込んでピストンを往復させていたが、エンジンでは燃料の爆発力を利用してピストンを動かす。燃料は可燃性の液体だ。これは、予熱を必要としない。あらかじめ気化させて大気と混合しておくだけでいい」
「じゃあなに、ボイラーが全く必要ないわけ?」
「飲み込みが早いな」
ジーベルマンは、うなずいた。
「気動車は高圧の水蒸気を得るために、始動前に二〇分ほどかけてボイラーの水を沸騰させる必要があった。ボイラーそのものも重くて場所を取るやっかいな代物だ。エンジンはその手間と構造を省くことができる。これだけでも、どれほど優秀な動力源か分かるだろ?」
「すごいわ!」
ユニッタが眼を輝かせた。
「そんな方法があったなんて! ねえおじいちゃん、すごいじゃない?」
「いや、わしは疑問があるぞ」
ブンゼンは、慎重に考えながら言った。
「燃料は何を使うんじゃ? 可燃性の液体というと、油か?」
「幸いスプリタリカには度の強い酒があります。昨日、みんなで飲んだやつ、あれでいい。あれを蒸留すれば、アルコールが手に入ります」
「アルコールか。あんな燃えやすい危険なものを使うとは……」
「燃えやすいからこそ、大きな力が得られるんですよ」
「そうか。では次の疑問じゃ。シリンダーの中で爆発を起こすと言ったな。それはどうやる? 一回一回ヘッドをあけてロウソクを突っ込むわけには行くまい」
「電気火花を使います。言わば雷ですね」
「雷じゃと!?」
疑わしそうにブンゼンが言った。
「何を言っとるんじゃ? おぬし、まじめに話しておるのか?」
「電気の性質について話し始めたら、それこそ信じてもらえないでしょうね」
ジーベルマンは、ポケットからタバコ色ににごった、透明な六角柱の結晶を取り出した。「だから、実際に見てもらいます。いいですか、僕の手元をよく見て」
ユニッタは目をこらした。ジーベルマンがが結晶を石でたたく。カチッ! と音がして、青白い小さな火花が散った。
「見えましたね?」
「なんじゃ、今のは?」
「それ、なんなの?」
「こいつは電気石の結晶だ。石英鉱山のすみっこに不良品として転がっているやつだよ。町で子供からもらったんだ。圧電性という性質があって、たたくと今見たように小さな雷を出す。落雷で木が燃えることがあるのは知っているだろう? この石をシリンダーのてっぺんに埋め込んで、アルコールガスに点火するのさ」
ジーベルマンは、テーブルに手をついて言った。
「これだけの仕組みで、このエンジンは気動車の三倍近い力を発生することができる。重さは五分の一以下だ」
「ううむ……」
ブンゼンは、穴が空くほど設計図をにらみつけながら、興奮した様子でうなった。
「信じられん、信じられんが……たしかに、こいつは回転力を生み出す構造になっておる! おぬし、こんな代物をどうやって考え出したんじゃ!」
「僕が考えたわけじゃありません」
ジーベルマンは肩をすくめた。
「僕が元いた国で、百年以上の時間をかけて、多くの人たちがゆっくりと一つずつ、気が狂いそうな深い思考のすえに生み出した発明の、集大成なんですよ」
「すばらしい機械じゃ! こんなものを目にすることができようとは……」
「しかし、多くの問題を生み出した恐ろしい機械です」
ジーベルマンは、ほろ苦い顔で言った。
「ユニッタ、さっき言った通り、この機械には凄まじい魔力が潜んでいる。人間の暮らしをどこまでも便利にしてくれる悪魔の誘惑がね。その悪魔に負けたとき支払わなければならない代償は、このスプリタリカの自然の全てだ。そのことを肝に銘じておいてほしい」
「……分かったわ。でも、どうすればいいの?」
口元を引き結んで聞いたユニッタに、ジーベルマンは言った。
「この仕組みは、決して人に明かしてはいけない。ここにいる三人だけの秘密にするんだ。人々にとって不公平かもしれないが、この世界はまだこの悪魔を飼い慣らせるほど成熟していない」
言ってから、ジーベルマンはふと、不安げな顔になった。
「こいつを使いこなせる文明なんて、本当はどこにもないのかもしれないな。遠くへ行きたい、早く行きたいという思いは、誰もが抱くものだから……」
「そんなことないわ!」
ユニッタは、懸命に否定した。
「だってあなたがいてくれるもの。ジーベルマン、あなたならこの機械の正しい使い方を考えてくれる。そうでしょ?」
「君が考えるんだ」
ジーベルマンは、優しく言った。
「君が作るんだから。僕は今まで通り、手を貸すだけだ。いいね?」
ユニッタは、輝くような笑顔でうなずいた。
苦難の日々が始まった。
収穫祭まで、あと一カ月たらず。
しかしそれは、実物はおろか存在すらも知らなかった未知の機械を作るための時間としては、あまりにも少なかった。
ブンゼンも加わり、三人での作業が始まった。ジーベルマンが図面を引き、ブンゼンがそれをテューガで形作る方法を考え、ユニッタが実際に部品を作る。
燃料タンクや、その送出管は、気動車の水タンクとパイプを流用することができた。問題は、そこからだった。
エンジンの機構には、まず最初に、液体の状態のアルコールを気化させて空気と交ぜる気化器というものがある。気化器の部品には、細い穴からアルコールを吸い出させるジェットというものがあるが、ここが最初のつまづきだった。
砂粒ほどの直径の穴を人差し指ほどの深さも空けなければならないのだが、それができない。ユニッタが石英の破片を使った細い穿孔器で穴を空けようとしたが、真円の穴がどうしてもできない。人の手の動きを越える精度が要求される部品なのだ。
丸一日その部品に挑戦したあげく、しびれた肩としょぼしょぼになった目で、ユニッタは言った。
「ジーベルマン、駄目よ。どうやっても無理」
「あきらめるな。原理にならともかく、技術に無理って言うことはないんだ。考えれば必ず方法がある」
頭をくしゃくしゃにかきむしって考えていたジーベルマンは、ふと足元に転がっていた木の破片に目を止めた。それになんと、求めていた小さな穴が空いているではないか。
「これは?」
ジーベルマンは木片を拾い上げた。ユニッタがそれを調べて言った。
「鉄砲虫だわ。ナナイロカミキリの幼虫よ。この虫はどんな堅い木でも食べ散らかしてトンネルだらけにしてしまうの。テューガがよく駄目にされるのもこいつのせいよ」
「それだ!」
ジーベルマンが飛び上がった。
ジェットは完成した。鉄砲虫に穴を空けられている適当な大きさのテューガの木っ端を探して、それを部品の形に切り出したのだ。
「言っただろう? 技術に不可能はないんだよ!」
目を輝かせているジーベルマンに、ユニッタは敬服してただうなずくばかりだった。
部品はまだまだ必要だった。気化器に次いで、燃料の量を加減する絞り弁、混合気をシリンダーに送る複雑な断面の吸気管、シリンダーへの吸排気弁を制御する動弁ロッドとカム、シリンダー本体の耐圧加工と気密加工。
しかし、三人は懸命に知恵を出し合い、工夫を重ねて、ひとつひとつ問題を克服して行った。工房の隅に積まれていた堅いテューガやユソウボクの原木が、日を経るごとに精巧な部品に生まれ変わって、部品ラックの中に積まれていった。
最大の問題は、シリンダー本体だった。
蒸気シリンダーに送り込まれる蒸気の温度は、せいぜい百数十度である。
だが、エンジンのシリンダーは、それをはるかに越える高温にさらされるのだ。圧縮されたアルコールの燃焼温度は、最大六〇〇度以上に達する。
ジーベルマンは実験しなかった。いかに強靭なテューガ木と言えど、その中で圧縮燃焼を起こしたら大爆発するのが明らかだったからである。
ジーベルマンは三日間徹夜して考えた。
シリンダーに減圧装置を設けて圧力を逃がす――これは意味がない。パワーが落ちてしまう。シリンダーに革を巻き付ける、シリンダーを二重にする――どれも今ひとつピンとこない。
三日目の朝、ジーベルマンは倒れた。
気が付くと、ベッドに寝かされていた。傍らで、シチュー皿片手のユニッタが心配そうに見つめていた。
「無理するんだから……寝ていたら作業にならないって言ったのはあなたじゃない」
「その通りだ。全く僕が悪い」
ジーベルマンは上半身を起こして、ひげぼうぼうになったあごをかきながら素直に非を認めた。
「早くよくなってね」
気遣わしげに言いながら、ユニッタはミトンをした手で陶器のシチュー皿を差し出した。ちょっと待って、とジーベルマンが手を伸ばして、サイドボードの木の盆をとり、毛布をかけたひざの上に乗せた。
「ここに置いてくれ」
「あ、ごめん。熱いもんね」
ユニッタは皿を盆の上に置いた。ジーベルマンがしゃもじを持ってそれをすくうのをじっと見つめる。
「おう、あちち。出来立てだね、これは」
「そうよ」
「これはオーブンで暖めたのかい? よく割れなかったな」
「ええ」
「ん……うまい。君は料理も上手だな」
「……」
「ユニッタ?」
「それよ!」
突然ユニッタが叫んで立ち上がった。
驚いたジーベルマンはシチューをこぼしてしまった。
ジーベルマンは左手をやけどしたが、ユニッタを責めはしなかった。
テューガのシリンダーの内壁に、気泡を含む陶器の内張りをはめ込む。高熱はライニングに吸収され、外筒までは達しない。陶器に足りない強度を、外側のテューガが補う。
ユニッタがそれを考えついたのだ。
新しいエンジンは、完成間近になった。
3.
「うまくいくかのう」
「いきますよ、絶対に」
昼食の席で、サンドイッチをぱくつきながら、ジーベルマンとブンゼンが話していた。
収穫祭まではあと三日。
三人は、最後の難問に突き当たっていた。もっとも精密かつ強度の要求される部品――シリンダーへの吸気と排気を担うバルブという小さな部品の加工だ。
テューガや石英を加工して作ってみても、バルブに要求される一分間に何千回という高速の上下運動に耐えることができない。どうしても折れたり欠けたりしてしまうのだ。
それさえなんとかすれば、エンジンは完成する、と言うところだった。
「買い物から戻って来れば、必ずユニッタが何か思いついていますよ。いい気分転換になったでしょうから」
「あの子の方は心配しとらんが……」
ブンゼンは、何やら気掛かりな様子で言った。
「おぬし、気づいておるか? 最近うちの周りを、得体の知れない若い男たちがうろついておるのを」
「得体の知れない男ならここにもいますが」
「冗談ごとではないんじゃ」
すみません、とジーベルマンは頭を下げた。
「ユニッタのモービルを壊したやつらではないかと思ってな。余計な心配をさせてはと思ってあの子には言っとらんが、念のため家の周りに鳴子を張っておいた。熊よけのものじゃが、二本足のけものにも役立つじゃろ」
「そうですか。僕も気をつけます」
表情を引き締めて、ジーベルマンはうなずいた。
遠くから聞こえて来た蒸気音が、表で止まった。食べ終わっていたブンゼンが立ち上がり、迎えに出る。
ジーベルマンは残りのサンドイッチを口に押し込んでいたが、どうも表の様子がおかしい。言い争っているような声が聞こえる。見てくるか、と立ち上がったとき、荒々しく扉が開いて、重い買い物袋を抱えたユニッタが入って来た。
「おじいちゃんには関係ないから! 構わないで!」
後ろに向かって叫んだユニッタの前に、ジーベルマンは立った。はっとユニッタが立ち止まる。
「どうしたんだ?」
「……」
「何かあったのかい?」
ジーベルマンを無視して、ユニッタは台所に向かおうとした。だが、買い物袋の重さによろけたのか、肩を柱にぶつけてしまう。取り落としかけた袋を、ジーベルマンが手を伸ばして支えた。
「ずいぶん重いじゃないか。女の子が持つものじゃないな」
冗談を言ってそれを受け取ろうとしたとき、いきなり袋ごとすべてを叩きつけられた。
「どうせわたしは女よ! 女で悪いの!?」
涙の浮いた目で睨むユニッタを、あぜんとしてジーベルマンは見た。
「どうしたんだ、一体」
「触らないで! 男なんか……」
差し伸べた手が、はたき落とされた。そのままユニッタは身をひるがえすと、ハシゴを駆け登って屋根裏部屋に行ってしまった。
「なんなんだ、一体……」
「町で何かあったようじゃ」
入ってきたブンゼンが言った。
「どうも、例のビズビィのやつにからかわれたらしいんじゃな。毎度のことじゃが、なにしろ感じやすい年頃じゃから……」
「何を言われたんです」
「女のくせに機械いじりなんかいつまでもしているものじゃない、それぐらいならうちへ来て飯を作ってくれ、そう言われたそうじゃ」
「……ひょっとすると、それはプロポーズじゃありませんか?」
「そうなんじゃよ。あの子は全然気づいておらんが」
ブンゼンは、苦笑しながらあごをかいた。
「昔だったらわしも乗り気になったじゃろうが、今のあいつは変わってしまったからなあ。ビズビィのやつは、ユニッタが喜ぶことがなんなのか、いまだにわかっとらんようだし」
「そもそも、なんだって、ユニッタはああも男を嫌うんですかね」
ジーベルマンが聞くと、ブンゼンはちょっと首を傾げてから、言った。
「人様に話すようなことではないが……まあ、あんたならいいじゃろう。話してやる。あれの父親が原因なんじゃ」
「というと……」
「わしの娘婿じゃ。そいつがだらしのない男で、結婚してからいくらもたたないうちに、よそに女を作って逃げてしまった」
「それは……」
「わしの娘は、その後、心労であっさり死んでしまったよ」
「なんと言ったらいいか……」
「いやなに、昔のことじゃよ」
存外けろりとした顔で、ブンゼンは言った。
「ユニッタがおる。それで十分じゃ。ルネッタも、親父のわしがめそめそ泣き暮らしていたら、喜ばんじゃろうしな」
いくぶん単調な声だっだが、乾いていて悲しさはなかった。この人らしい、とジーベルマンは思った。
「母親を見て、ユニッタは幼心に思ったんじゃろう。男なんてあてにならないとな。以来、機械一筋で十余年じゃ。おかげで、頭がいいくせに人付き合いの下手な子に育ってしまった」
ブンゼンは、天井の木目を見上げて愛しそうに言った。
「気は強いし口の利き方も知らん、愛想もない子じゃが、母親に似ていい子じゃよ。損してばかりおるところもルネッタにそっくりじゃ。それがあんな風に町で言われるのは、まあなんというか、不憫じゃのう」
「時代が追いついていないんですよ」
ジーベルマンは、立ち上がった。
「任せてください。立ち直らせて見せますよ」
窓際で、ユニッタはぼんやりと裏庭のブナの木を見ていた。
枝の間から見える幹のうろから、黒っぽい小動物が頭を出している。よく見ると、いなくなったと思っていた灰色リスの『チャーコールグレイ』だった。
窓を開けて呼ぼうとしたとき、灰色の頭が、ぴょこりと増えた。二つだ。
小さな友達は、知らないうちに連れ合いを見つけていたのだ。
「二人か……」
見ているうちに、ユニッタは耐え切れなくなって、窓を閉めた。
「飯でも作れだなんて……私を何だと思ってるんだろう」
ビズビィの言葉は、ユニッタにとって最大の侮辱だった。
「やっぱり、女の私が職人になろうなんて思うのは、無理なのかな……」
脳裏に、油まみれの無骨な、でもやさしい手が思い浮かんだ。
「母さん……」
それは母の手だった。ユニッタの母ルネッタも、職人だった。腕は確かだった、とブンゼンが言っていた。
それなのに、女であるせいで不幸な事にあって、恵まれないまま亡くなってしまったのだ。
「男なんて……」
と、跳ね上げ戸にノックがあった。
「ユニッタ、いいかい」
「ジーベルマン?」
ユニッタは、体を起こしてベッドに腰掛けた。
「いいわよ」
跳ね上げ戸が上がって、床に開いた下り口からジーベルマンの頭が覗いた。上半身だけ出して、床の上にひじをつく。
「じいさんのお達しで入室は禁じられてるんでね。ここで話そう」
そうだ、とユニッタは思った。
「ね、先に話していい? 聞きたいことがあるんだけど」
「どうぞ」
ユニッタはうつむいて言った。
「……あのね、ジーベルマン。あなたが元いた国では、女の職人はいた?」
それは質問ではなく、期待だった。
熱っぽい目で見つめるユニッタに、ジーベルマンはうなずいた。
「もちろん」
ユニッタは、なおも願いを込めて言った。
「下働きとかじゃなくてよ? あなたのように、真っ白な紙に図面を書いて、部品を作って、組み立てて……無から有を生み出す魔法使いのような力をもった職人が?」
「いたとも。何人もね」
「女は男に劣ってなんか、いないわよね」
「劣っていない」
結婚式の宣誓のように、ジーベルマンはきっぱりと断言した。
「……ありがとう」
ユニッタは、ほっとため息をついた。
「あなたは、いつもわたしを安心させてくれる。男の人がビスビィみたいなのばっかりじゃなくて、よかった」
「あいつはあいつで悪いやつじゃないと思うがね」
「どこが?」
強く聞き返したユニッタに、ジーベルマンが手を広げて見せた。
「まあそのうちわかるさ。しかし君に言ったことは確かに言い過ぎだ。ここはひとつ、がつんとやってやろう。競技会で」
「そうね。それしかないか」
ユニッタは、立ち上がってジーベルマンのそばまで歩いてきた。
「また元気づけられちゃったね、ありがと」
「いや……」
ジーベルマンは、頭をかいた。
「でも、まだ問題があるわ」
ユニッタは、ジーベルマンの隣に腰掛けて足をぶらぶらさせながら、言った。
「バルブ。どうしたらいいと思う? 道々ずっと考えていたんだけど、いいアイデアが浮かばない。今まで、どんなに難しい問題でもクリアしてきたけど、こればっかりは……」
ユニッタは、何もない空間をじっと見つめながら言った。
「励ましてもらってなんだけど、自信、なくしちゃう」
「うん……」
ジーベルマンは、少しの間ためらっていたが、やがて言った。
「ユニッタ、最後の助言だ」
「え?」
「金属。――こいつがどうしてもいるようだ」
ジーベルマンは、ポケットに手を突っ込んだ。取り出したのは、銀色に光るナイフ。
「この世界には金属がない。僕にはそれが、発達し過ぎた文明が再び生まれることを防ぐために、何者かが施した特別な処置のように思えていた」
ジーベルマンは、輝くナイフの刃を見つめた。
「しかし、もういいだろう。いまこれを必要としている者は、これの危険も恐ろしさも十分に理解できる人間だ」
ジーベルマンは、ナイフの刃をもって、ユニッタに差し出した。
「これを使ってくれ」
「これを……?」
ユニッタは、ナイフを手に取った。
「僕が鋳型を作る。これと、僕が着ていた服についていた金具を溶かせば、バルブに必要な量の鉄が十分手に入るだろう。鉄のバルブなら、十分な強度が得られるよ」
「そんな……」
ユニッタは、ナイフとジーベルマンの顔を交互に見比べた。
「これは、あなたが国から持ってきた、ただ一つの思い出でしょう? そんな大切なものを溶かせだなんて……」
「思い出ならこれからいくらでも作れるさ」
ジーベルマンは、明るい顔で言った。
「使うんだ、ユニッタ。そうだ、それを君に送る収穫祭のプレゼントにしよう。ちょっと早いし、なくなってしまうが、構わないね?」
「……ええ」
ユニッタは、胸に詰まったものを言葉にできず、ただうなずいた。
第四章 収穫祭
1
若葉色、小麦色、海色、夕焼け色。色とりどりの衣装をまとった遊楽隊が、軽快なメロディを振りまきながら路地から路地へ練り歩いて行く。
辻ごとに小さな演台をしつらえて魔術師やジャグラーが立ち、手慣れた妙技を披露すると、集まった人々から拍手と石貨のシャワーが降る。広場への道は、両側に立てられた屋台と、それを見て歩く家族づれや恋人たちであふれかえっていて、真っすぐ歩くこともできない。
メインストリートの入り口には、子供たちの取ってきたコスモスやシオンがこぼれんばかりに飾り付けられた、横断幕つきのアーチが作られている。
横断幕には小麦色の縫い取り文字。
『収穫祭』
今日は、一年に一度の祭りの日だ。
アーチのたもとで、屋台を回って手に入れてきた菓子やおもちゃを見せあっていた子供達は、街道の向こうから巨大な機械がシュンシュンシュンと陽気な音を立ててやってきたのを見て、歓声をあげた。
「おいおい、危ないよ!」
「ちょっと、どいてよ!」
群がってきた子供をしかり飛ばして、ユニッタはゆるゆると『チャーコールグレイ』をアーチの下に進めた。煙突がこすらないかどうか、首をひねって確かめる。
「よーし、ぎりぎり。ジーベルマン、後ろは?」
「心配ない。――ギャラリーが多くて大変そうだがね」
『チャーコールグレイ』の後ろには、ロープで新しいモービルがけん引されている。
何しろ今日の目玉だから、子供たちもすぐそっちに走って行って、一目見ようと取り囲んでいる。
だが、その勇姿は今のところ大きな布で覆われていて、見ることはできない。しきりに布をつまんで中を覗きこもうとする子供達を、運転席で操舵役をしているブンゼンがやっきになって追い払っていた。
「こらこら、そこをどかんか! ほら、ひいちまうぞ。あー、中を覗くな! 布を引っ張るな!」
「おじいちゃん、あんなにわめき散らして大丈夫かしら」
「大丈夫だよ。怒っちゃいないから」
左右の子供たちにツバを飛ばしてわめいているブンゼンの顔は、むしろ楽しそうだ。
「かえって体にいいんじゃないか。血行がよくなって」
「のんきなこと言って」
そういうユニッタも、笑っている。
しずしずと町の中を進んで行くユニッタたちを、沿道の人々が拍手で迎えた。日ごろユニッタに対して必ずしも好意的ではないひとたちだが、今日ばかりは気にならないらしい。巨大なモービルが町の真ん中を通って行くことが理屈抜きで愉快なのだ。
「できたのか、ユニッタ!」
声をかけながら、ひげ面の熊のような大男が運転席に飛び乗ってきた。
「カーバイドさん?」
「おうよ! おまえが来るって聞いたから、店ほったらかしてすっ飛んできたぜ。じいさん元気か? まさかくたばったんじゃないだろうな!」
「後ろ見てよ! もうパンパンに元気よ」
「そうか。いや、あんまり町に出てこないから心配してな」
カーバイドはユニッタの隣で立ち上がって、人々の歓声や口笛に手を振った。目立ちたくて来たのかと思ったら、そうでもなかった。
ユニッタに顔を寄せたカーバイドが、小声で言ったのだ。
「ブックメーカーで聞いたんだがな、ビズビィんところのモービル、今年はすごいらしいぜ」
「え、どんな風に?」
「よく知らんが、去年までのとはぜんぜん違うらしい。穴狙いで買う奴がたくさんいたぞ」
それだけ言うと、カーバイドは立ち上がった。
「じゃ、後でな! かみさんに怒鳴られちまう」
ユニッタが聞き返そうとしたが、カーバイドは飛び降りて人込みに紛れてしまった。ユニッタはジーベルマンと顔を見合わせた。
「ビズビィが……?」
フェルマット広場は、黒山の人だかりだった。
町の人たちだけではなく、都スプライトや近在の町からも見物人が来ている。ロープが張られた広場の中に、布をかぶせられた状態の二〇台あまりのモービルが並び、決戦のときを今や遅しと待っていた。各車の周りでは、それぞれの工房の職人たちが予熱と最後の点検に余念がない。
中央奥に一段高くなった貴賓席がしつらえられ、スプリタル国王の旗がへんぽんとひるがえっている。その隣の実行委員テントに、発車順を決めるくじを引きに行っていたブンゼンが、戻って来た。
「どうだった?」
「すまん、運の神様もここまでは手が回らなかったようじゃ」
ブンゼンが差し出した紙片に書かれていたのは、一八。出場二一台中では最後尾に近い。「抜くのが大変じゃな」
「大丈夫、それぐらいなんでもないわ」
ユニッタが自信にあふれた顔で言った。
「わたしたちのモービルなら、絶対に勝てる!」
「おい」
ユニッタは振り返り、顔をこわばらせた。そこには、やけに気難しげな顔をした、カナリア色の作業着の男が立っていた。
「……ビズビィ?」
「完成したのか」
「あいにくね」
ユニッタはそっけなく言った。だが、ビズビィはユニッタに言ったのではなかった。その目は、ユニッタの隣の異邦人に向けられていた。
「ふん……横から出てきて人のものをかすめとるようなことをしやがって」
「彼女はものじゃない。手に入れるんじゃなくてともに歩く相手だ! わからないのか?」
「なんだと?」
突然、ビズビィがジーベルマンに殴りかかった。誰が止める間もなかった。
ジーベルマンの長身が吹っ飛ぶほどの打撃だった。倒れたジーベルマンはすぐに起き上がったが、しかし反撃しようとはしなかった。
「殴り合いで決着をつける場面じゃないだろ
う。あんたも職人ならモービルで勝ってみな」
「よし。――なら勝負だ。俺が勝ったら、ユニッタ」
ビズビィは、きっとユニッタの顔を見て言った。
「俺のものになれ」
「――なんですって?」
ビズビィは、きびすを返して立ち去った。残されたユニッタは、時間が止まったように身動きもせず立ち尽くした。
「……本気かしら」
ジーベルマンを見上げる。ジーベルマンは、答えずに、貴賓席の方を見た。
「そろそろ始まりそうだ。ユニッタ、今は余計なことは考えるな」
「……ええ」
その時、ファンファーレが鳴った。
「お集まりの紳士淑女の皆さん、これより、第三回の気動車競走会を開催致します!」
朗々たる司会の口上に、会場がどっと沸いた。
「今回の競走会では、かしこくも国王陛下のご臨席を賜ることができました。優勝者ならびにその工房には、陛下のおほめの言葉をちょうだいし、なんと願い事を一つだけかなえていただけることが決まっております!」
満場、拍手と歓声。
「それではこれより、参加各工房とモービルの紹介に移ります。エントリーナンバー一番、クレストン兄弟工房製作、『クラドセラケ』!」
声とともに布が取り払われ、真っ青なサファイヤ色に塗られたモービルが現れた。
司会が工房とモービルの特徴を説明し、口笛や歓声が飛び交う。次々と新しいモービルが姿を現し、ついに一九番目の参加者までの紹介が終わった。残っているのはユニッタたちとビズビィの工房だけである。
ユニッタが、歓声の中でふとつぶやいた。
「おかしいわ、この紹介はモービルの完成申請の順に行われているはずなのに、あいつの方がわたしより遅いなんて」
「ユニッタ、出番だ」
ユニッタは顔を上げた。司会の声が響く。
「エントリーナンバー二〇番、ブンゼン工房製作、『スプリンググリーン』!」
そばの地面に立っていたブンゼンが、布を取り去った。ユニッタとジーベルマンが運転席に立ち、胸を張った。
大騒ぎしていた観衆が、水を打ったように静まり返った。驚きのあまりである。
「……なんだありゃ」
「ボイラーがないぞ?」
「煙突もないわ。予熱は済んでるのかしら?」
「おい、冗談はよせよ!」
徐々に笑い声が広がっていく。確かに、『スプリンググリーン』の外観は特異だった。 ユニッタの前掛けと同じ若草色に塗られた放熱板が前に、燃料タンクが後ろにあるが、その間にはなにもない。いや、衣装箱ほどの小さな箱があるのだが、それは動力源としてはあまりにも小さく見えた。
「ブンゼン工房では全く新しい設計概念に基づいて、従来の常識を破るモービルを製作したそうであります。ボイラーも煙突もない、奇妙キテレツなこのモービル、はたして完走できるのか、いやそれよりも、走りだすことができるのでしょうか!?」
司会の説明が嘲笑をあおる。なにしろこれまでブンゼンの工房は、下働きの一人も抱えていない小さな工房ゆえに、無名に近かった。応援する人がいないのも当然である。
歯ぎしりしながら、ユニッタが言った
「なんにもしらないくせに!」「まあ言わせとくがいいよ」
ジーベルマンがなだめた。
司会の紹介が続く。
「さて、次が最後のモービルであります。エントリーナンバー二一番、ビスビィ工房製作、『グラングージェ』!」
ビズビィのモービルが、漆黒の姿を現した。歓声が一気に小さくなった。
「おい、あいつもだ」
「どういうことだよ。示し合わせた冗談なのか?」
「でもあの工房は結構な評判だぜ。当主は老舗の工房の跡取り息子だ」
「じゃあ、本当にものすごい新型なのか」
ひそひそ声が交わされる中で、ユニッタが愕然としてビズビィのモービルを見つめていた。
「ジーベルマン、あれは!」
「そう来たか……」
『グラングージェ』は、『スプリンググリーン』と全く同じ外見をしていた。違うのは色だけだ。
「うちの周りをうろうろしていたのは、やっぱりあいつらだったんだ。盗み見したな」
「規則違反よ!」
「やめよう、今から申し立てても間に合わない。負けることはないさ。主要部分の精密な数字は僕の頭の中だ。盗めたはずがない」
ビズビィがモービルの運転席からじっとこちらを見ている。それを見返しながら、ジーベルマンは静かに言った。
「教えてやろうじゃないか、本物の力を」
ユニッタは、思わずジーベルマンの顔を見た。穏やかな顔だったが、彼女には分かった。 ジーベルマンは、猛烈に怒っていた。
「ルールの説明を致します!」
司会が叫んだ。
「各車は、この広場を出た後、五タラート先のチャダム砦まで走り、そこの門衛から一枚の紙を受け取り、折り返しこのフェルマット広場に戻ります。一番先頭で戻って来たものが勝ちであり、故障や事故によるリタイアはその場で負けであります。他車の妨害はせぬこと、条件はそれだけであります」
司会は、一段と声を張り上げた。
「門衛から受け取る紙は、国王陛下への嘆願書であります。優勝者には、その紙に好きな願いを書く権利が与えられます!」
今度は参加各工房の人たちから歓声が上がった。
「それでは、レースを開始致します! 各車、スタート位置について!」
二一台のモービルが微速で動き、縦一列に並んだ。
先頭のモービルまでは四〇タージ、五〇歩ほどもある。ジーベルマンはそれを見て、ユニッタに言った。
「勝てるか」
「あたりまえじゃない!」
ユニッタは不敵に笑った。――この半年間の苦労が、凝縮されて奥歯に集まった。ぎゅっとかみしめる。
「一台のこらず抜いてやるんだから!」
「用意――」
楽隊が、テューガのラッパを振り上げた。
「スタート!!」
ファンファーレとともに、二一台のモービルが走りだした。
2.
広場を出てすぐのところに、長い下り坂がある。そこを、モービルたちは加速しながら降りて行く。
「これは、帰りがきつそうだな」
「キャラバン返しの坂って言われているわ。スプライトから来た馬車や牛車がよく立ち往生するの」
先頭集団の速度が高い。ユニッタのモービルをぐんぐん引き離して行く。後ろにいた三台までが、横を抜いて行く。
「大丈夫かな?」
気になる様子でユニッタは聞いた。ジーベルマンが余裕を見せて答える。
「下り坂では重い気動車のほうが当然速い。気にするな、帰りには断然こちらが有利だし、この先いくらでも抜ける」
「そうだ、それにあそこ」
下り坂の終点が近づいて来た。その辺りから道は森へと入り見通しが悪くなるが、その先で急なカーブが待っているのだ。
カーブを通り抜ける。ユニッタが思った通り、早くも二、三台のモービルが曲がり切れずにそこに突っ込んでいた。幸いケガ人はいないらしく、運転手たちが悔しそうに突っ立っていた。
「ビズビィはいなかったな」
「駄目よ、こんなところで勝っても。後で文句を言うに決まってるわ」
ユニッタはつぶやいた。
道は川沿いの土手道となり、平坦になった。沿道の家から出て来た人たちが手を振る。
「よし、ここからが本領発揮だ」
ジーベルマンは、気化器のカバーを取り払った。スタート直後の混戦で接触したらまずいのでつけていた防護板だが、もう必要ない。邪魔なカバーを外された気化器は、猛然と空気を吸い込み始めた。
笛のような高い吸気音と、腹に響く二拍子の爆発音、そして直管並列排気筒の吠え声が、
渾然一体となって二人を包む。
小石を跳ね上げて疾走する爆動車の運転席で、ユニッタとジーベルマンは自然に顔を見合わせた。
「こんなの初めて。すっごくいい音!」
「ああ、本当だ!」
先を行くモービルの尻が、ぐんぐん近づいて来た。ユニッタは舵を軽くひねって、土手から川原にモービルを突っ込ませた。
「行くわよう!」
「おい、ユニッタ!?」
川の中に転げ落ちそうな急斜面を斜めになって川原に下り、三、四台を抜いたところでユニッタは舵を戻した。『スプリンググリーン』は土手を駆け登り、勢い余って空中に飛び出した。
「まず四台!」
ドン、ドン! とバウンドして土手道に戻る。ヒッコリーの板バネがきしむ音に背筋を冷やしながら、ジーベルマンは叫んだ。
「ユ、ユニッタ! 飛ばし過ぎだ!」
「大丈夫、軽いの!」
重い気 動 車とはまるで違う操縦感覚に有頂天になって、ユニッタは叫んだ。
「羽が生えてるみたい! 空だって飛べそう!」
「乗らない方がよかったな……」
規定で乗員は二名と決められている。競走用の気 動 車では、普通のように運転手が缶焚きまでしている暇がないので、機関手として一名追加することになっているのだ。『スプリンググリーン』には必要のない人員だが、そういう規則なのだ。
「空どころか天国まで行っちまいそうだ……」
「何か言った?」
「いや、なんでも」
ジーベルマンは、あわてて打ち消した。
土手から橋を渡り、湿地を抜け、再び森に入った。この先はくねくねと曲がる小道が砦まで続いている。その間に、一〇台以上のモービルをユニッタは追い抜いた。
その時、前方からモービルがやって来た。ユニッタは舵をひねってそれをかわす。
「折り返して来た先頭車だわ。思ったより早い!」
「いや……」
ジーベルマンは、すれ違ったモービルを振り返って言った。
「あのペースだと相当無理をしているはずだ。多分ボイラーがもたないよ」
「だといいけど……」
木立の向こうに、石作りの城塞が見えかくれして来た。チャダム砦だ。
「よし、半分!」
その時、ユニッタたちのエンジンの音によく似た音が前方から近づいて来た。
「ビズビィ!」
一瞬のすれ違い。その瞬間確かに、ジーベルマンとビズビィ、二人の視線が交錯した。「速いわ!」
「いや、差はない」
砦の前の広場に『スプリンググリーン』は飛び込んだ。ジーベルマンが飛び降りて門衛から紙片を受け取ってくる。
大きな図体の他のモービルが転回に苦労している間に、二人は機敏に向きを変えて、再び走りだした。
あと二台。ユニッタは前からやってくる他車を右に左にかわしながら、飛ばしまくる。
つづら折れの林道を抜けてから、湿地を走破して、橋の上に飛び出す。と、何ということか、ついさっきすれ違った先頭のモービルが、やはりどこか壊れたのか、黒煙を吹いて橋上で立ち往生しているではないか。
「だめ、通れない!」
「落ち着け、ビズビィがいない。どこか他の道から回ったはずだ」
「あそこよ!」
ユニッタが指さした。少し川上の対岸の土手を、漆黒のモービルが上って行く。おそらく、橋に入る前に気づいて、手前の土手から川に入ったのだろう。
「早く戻って――」
「しまった!」
後ろを見たジーベルマンはうめいた。すでに後続のモービルが進入して来ている。
「八方ふさがりだ」
「いいえ、まだいける!」
言うなりユニッタは、舵を思い切り右に切った。気づいたジーベルマンが制止の声を上げる。
「やめろ、無理――」「いけるわ! この子なら!」
手すりのない橋から、『スプリンググリーン』は空中へ踊りだした。二タージほど下の川面に、盛大な水煙を上げて着水する。
「動いて!」
板バネが割れたらしい。傾いた姿勢で止まったモービルの運転席で、ユニッタは何度も送出ポンプのハンドルを回した。
「お願い、ここで負けるわけにはいかないの」
懸命にハンドルを回すユニッタの思いが通じたのかどうか、しゃくりあげるような振動とともに排気管から煙が噴き出した。何度かのノッキングの後、再び力強い機関音が上がる。
「いいわ、進んで!」
車輪が回る。川底の土に足を取られながら、『スプリンググリーン』はなんとか岸にたどり着いた。ジーベルマンが飛び降りて車台の下をのぞき込む。
「どう?」
「右前輪のサスペンション破損!」
「いける!?」
「お尻が痛くはなるがね」
「乗って!」
ユニッタはモービルを発進させた。ジーベルマンがあわてて飛び乗る。
再び二人は走りだした。気動車は橋がなければ川を渡れない。勝負は一騎打ちになった。 土手を走り、森に飛び込む。最初にリタイアしたモービルたちが立ち往生しているカーブを抜けると――
「いた!」
キャラバン返しの坂の取り付きに、ビズビィたちのモービルが見えた。
「間に合ってー!」
沿道には広場から下りて来た観客たちが花道を作っている。みんなは予想外のレース展開に大興奮だ。大人や子供やアヒルや犬が大騒ぎしている坂を、二台のモービルがものすごい勢いで駆け上がっていく。
少しずつ差が縮まる。だが、もう、すぐ先がゴールだ。手が届きそうで、届かない。
「あとちょっとなのに!」
ユニッタが叫んだ時。
突然、ビズビィのモービルが爆発したような青白い煙を抜き上げた。いや、それは次の瞬間本物の爆発になった。
「え――」「アルコールの誘爆だ!」
スローダウンしてビズビィの車が止まる。そのそばを駆け抜けるとき、顔をかばったビズビィの無念そうな、本当に残念そうな顔がちらっと見えた。
「エンジンブローだな。金属バルブまではあいつも作れなかったんだ」
ジーベルマンのつぶやきは、ゴールに飛びこんだ『スプリンググリーン』を迎える人々の歓声にかき消された。
3.
窓の外を白いものがひらひらと舞っている。
ユニッタは、窓に息を吹きかけた。階下の暖炉の熱でこの部屋も暖かいが、外は氷点下だ。窓は白く曇り、外は見えなくなった。
「ユニッタ、降りて来ていいよ」
階下からジーベルマンの声が聞こえると同時に、表からシュンシュンシュンと言う音が響いて来た。
気動車の機関音だ。それが遠ざかっていく。冬によく似合う音だな、とユニッタはふと思った。
はしごを降りると、テーブルを挟んでジーベルマンとブンゼンがお茶を飲んでいた。ユニッタはジーベルマンの隣に座った。
「ビズビィ、帰った?」
「ああ」
「ごめんなさい、出なくて」
「いや。いい機会だから思いきり説教してやった。技術者の心構えってやつをね」
「それで、なんて?」
「謝ってたよ」
ジーベルマンは、ユニッタの分のお茶をいれながら言った。
「君のモービルを壊したことや、技術を盗んだことはね。でも、今まで言ったことを取り消すつもりはないそうだ」
「馬鹿にしたこととか、悪口言ったこと?」
「ああ」
「結婚、の話も?」
「ああ」
ユニッタは、ため息をついた。
「――ほんとに、わかってないんだから」
「一応、彼が一等をとったからね。申し込む権利があると思っているんだよ」
「でもそれは、あなたが『スプリンググリーン』を爆発させちゃったから、繰り上げで一等になっただけでしょ」
ユニッタは、いたずらっぽくジーベルマンのわきをつついた。
「確かにわたしは一等の取り消しをのぞんだけど……王様の目の前で爆発させなくてもよかったのに」
「形があると未練が残る。あれでよかったんだ。――でも本当に済まなかった。君が作ったものなのに」
「ううん、いいの」
ユニッタは、からっぽの工房を見ながら言った。
「だって、一等賞になった工房は、王様へのお願いと引き換えに、優勝したモービルを軍隊にたくさん納めなければいけない、なんて言われたんだもの」
「五〇台のモービルの発注を受けたら、普通の職人は大喜びで増産にかかるがね。そこは王様の計算違いだ。――まさか、軍隊でモービルを使わないでください、なんてお願いを
されるとは思っていなかっただろうしね」
「モービルが戦争に使われるのなんか、まっぴらよ」
ユニッタは言った。
「ジーベルマン、あなたが教えてくれたもの。そういう使い方が、どんな結果を引き起こすか。わたし、損したなんて思っていない」
「まったく、この爺い不幸者が」
ブンゼンが、笑いながら言った。
「おかげでわしももうけ損ねたわい」
「いつも、欲張ったらろくなことないって言ってるじゃない。大体おじいちゃん、その年で欲しいものがあるの?」
「ほ、そりゃもちろんある」
ブンゼンは言って背を反らした。
「なにがほしいの?」
ブンゼンは、人差し指を突き出した。
「おまえの笑顔、じゃよ。――はは」
照れたように顔をそらして、ブンゼンは席を立った。
「ちょっくら、裏で雪景色でも見てくるかな」
出て行きぎわ、ブンゼンとジーベルマンが目配せしあった。
ブンゼンの足音が消えると、部屋の中は静寂に包まれた。戸外を舞う雪は音を立てない。
ユニッタは、テーブルに腕を組んでほおを乗せて、ジーベルマンをじっと見ていた。競技会の時からずっと、彼に言いたいことがあったのだ。
でも、それは言う勇気はまだなかった。代わりに、別の言葉が口をついて出た。
「ねえ、ジーベルマン。わたし、これから、どうやってモービルを作ったらいいんだろう」
ジーベルマンが、聞き返すように見つめている。ユニッタは、続けた。
「あなたは町の工房から引き抜きの話がいっぱい来てるけど、わたしは将来のあてがないでしょ。――二度と作れない『スプリンググリーン』が壊れちゃって、張り合いなくしちゃったし」
「君は生粋のエンジニアだな」
ジーベルマンがおもしろそうに言った。なに? とユニッタが顔を上げる。
「エンジニア。技術者だ。職人のことをぼくの世界ではそう言っていた」
「いい言葉ね」
「機械いじりが三度の飯よりも好きで、いじる機械がなければ作ってしまう。それを取ったら何も残らない。まさに君はエンジニアだよ」
「でも、もうないもの」
ユニッタは、遠くを見るような目で言った。
「あなたとモービルを作っている間、本当に楽しかった。それももう終わり。あの『鉄』って物ももうないし……」
「あるよ」
ジーベルマンは、手のひらを差し出した。ユニッタは、それを不思議そうに見つめた。
「どこに?」
「ここにさ。鉄はこの世界にもある。僕らの体がそれを証明しているんだ」
ジーベルマンは、ユニッタの手を取って一緒に広げた。
「君と僕の体には、同じ血が流れている」
「エンジニアの血?」
「それもけど、そういう意味じゃない。僕らの血は赤いね? 赤い血には鉄が含まれている。中に含まれる鉄が、血を赤くするんだ」
ジーベルマンは、ゆっくりと説明した。
「ここは金属のない世界じゃない。存在するけど、それが抹消され、忘れられた世界だ。金属を食べる細菌、金属を溶かす気体、何によってかは分からない、だが、歴史のある時点で――おそらく戦争の一過程で、金属が失われ、そして忘れられた」
「どうしてそんなことが分かるの?」
「僕がいた時代には、そういうものがあったからさ」
ジーベルマンは、自分の胸を指した。
「僕は過去から来た人間だ。空気の通わない石の氷室に閉じ込められて、長い間眠らされていた。だから、僕だけが過去から金属とともにこの世界へやってくることができた」
「……過去から……」
「この世界の言葉やものの名前が僕に分かるのは、そういうわけさ。テューガの存在するわけも大体想像が付く。失われた遺伝子工学、生体改造技術――そう言ったものの応用が、金属が失われてから行われたんだろう」
「遺伝子……生体?」
「いや、すまない、言ってもしょうがないことだ」
「でも、知りたい。もっとあなたの知識を」
ユニッタは、ジーベルマンの腕にすがった。ジーベルマンはおどけて言った。
「それは、また今度にしよう。ちょっと殺伐とした話になるからね。恐ろしい文明にまつわる話のひとつだよ」
「知りたい……そう思ったらいけない? 恐ろしいことでも、忌まわしい話でも」
「知りたいと思うことは自然だ。ひとのもっとも素晴らしい能力だよ」
「あなたに、もっと教えてもらいたい」
ユニッタは、ジーベルマンの腕をしっかり握って言った。
「わたし、今まで勝つためにモービルを作っていた。ビズビィに負けたくない、男に負けたくない、そればっかりでモービルを作っていたの。でも、その考えはあなたのいた世界の人達や王様と同じだって、いま気が付いた。人に勝つためにやるんじゃだめなのよ。でも、どうしたらいいか分からない。わたし、モービルを作るのをやめなければいけないの?」
「それなら、足の弱い人や、遠くへ行く人のために作ればいい。人を害する技術には、人を助ける技術で対抗できる。技術そのものを捨てる必要はない。良い技術を身につけるんだ」
ユニッタは、うなずいた。この人は、なんてすてきな考え方をするんだろう。
この人なら、とユニッタは思った。素直に思いを伝えられる。
「ジーベルマン、あの時、言ったよね」
「……ん?」
「競技会で……発走前にあなたがビズビィに殴られたとき、さ……。手に入れるものじゃない、ともに歩く相手だって」
ユニッタは、赤く上気した顔を上げて、精一杯の勇気を振り絞って聞いた。
「あの時……すごく、うれしかった。あれ、どう言う意味なの?」
「ああ……」
ジーベルマンが、片手を宙に挙げて、何か言おうとした。それから、その手を頭に持っていって、髪の毛をくしゃくしゃにかきまわした。
「それは、だね。あー……僕は……」
彼らしくもなくしどろもどろになる。それを、ユニッタがいたずらっぽく見つめている。不意に目が合って、どちらからともなく、苦笑した。――もうお互いにわかっているのだ。必要なのは、一言だけ。
ジーベルマンは、空咳を一度してから、窓の方をむいて言った。
「ユニッタ、一緒になってくれ」
「……」
「じいさんには――実はもう話してある。うんと言ってもらえたよ。だから、君さえよければ……」
目をそらしたまま、ジーベルマンはこちらを見ない。ユニッタも、その視線の先を見た。
窓の外は、静かな単色の世界。灰色リスたちも、愛するもの同士で眠りについているだろう。
でも、もううらやましくない。
隣を見る。男が見ていた。
「はい……」
ユニッタは、ゆっくりうなずいた。
――了――
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